『エリア教科事典』1日本歴史

1975年10月

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大正デモクラシー

古屋 哲夫

 

1憲政擁護運動と大正政変
2第一次世界大戦と日本
3デモクラシー思想と社会運動
4政党政治の展開
5市民生活と文化

2第一次世界大戦と日本
第一次世界大戦始まる
中国情勢と目本の参戦
二十一か条要求
シベリア出兵
パリ講和会議と日本
朝鮮・中国の民族運動


2第一次世界大戦と日本

 

 日露戦争以後、世界政治の焦点はバルカン・中東方面に移ったが、日本の関心はもっぱら中国に向けられていた。バルカン問題から起 こった第一次世界大戦に日本が参戦したのも、中国問題で有利な地位を得ようとしたからにほかならなかった。



第一次世界大戦始まる

 19世紀末から20世紀初頭にかけては、列強の植民地争奪が世界各地でくり広げられ、露骨な帝国主義政策が横行していた時代であっ た。日露戦争後には、列強の錯そうした利害関係は英独の対立を軸に整理され、バルカン半島・中近東が世界政治の焦点となってきた。 そして、これらの地域での対立を激化させたのは,新興帝国ドイツの躍進であった。国内資本主義の急激な発達を基礎としたドイツは、 バグダード鉄道建設の利権を獲得して、バルカンからペルシア湾への発展をくわだてたが、それはイギリス側からみれば、アフリカとイソドを結ぶ植民地支配への脅威であった。

  またバルカン半島では、ドイツはオーストリアと結んでゲルマン系住民の民族意識をあおりたてようとしたが(汎ゲルマン主義)、それはスラブ系住民を支配下に置こうとするロシアの政策(汎スラブ主義)と、はげしく対立することになった。そしてこのような状況のなかで、元来はヨーロッパ大陸における独襖伊(ドイツ・オーストリア・イタリア)三国同盟(1882年)に対抗する目的でつくられた露仏同盟(1891年)は、これにイギリスが新たに加わった形の対独同盟として強化された。

  イギリスはフランス・ロシアとのあいだに、エジプト・モロッコ・ペルシア・アフガニスタンなどにおける、勢力範囲についての協定を 結んで対立の原因を除き、ドイツに備えた。露仏同盟に英仏協商(1904年)・英露協商(1907年)を加えた新たな提携関係は「三国協商」とよばれた。日本も日英同盟(1902年)・日仏協約(1907年)・日露協約(1907年)によってこの三国協商に結びついていた。

  そしてこの対立関係は、サラエボをおとずれたオーストリア皇太子が、セルピアの民族主義者に暗殺されるという事件(1914年6月28日)をきっかけにして、いっきょに世界大戦をひき起こすことになった。1914年(大正3)年7月から8月にかけてオーストリア・ドイツに対して、ロシア・フランス・イギリスが宣戦し、あいついで戦争状態に突入した。



中国情勢と目本の参戦

 世界大戦が起こったとき、日本の関関心、もっぱら中国に向けられていた。日露戦争後の日本の対中国政策は、ロシアと日露協約を結んで満州(中国東北)・蒙古を両国の勢力とし、列強の勢力が進出してくるのを防ぐとともに、他方では、中国本部に勢力をのばす機会をつかもうというものであった。

  日本で師団増設が政治問題化しつつあった1911(明治44)年10月、中国では武昌に始まった革命派のほう起が、たちまちのうちに広がり、翌年1月には南京に中華民国臨時政府を成立させた(辛亥革命)。しかし、革命派革命を徹底させるだけの力はなく、清朝側の実力者袁世凱と、清朝を消滅させるという条件で妥協し、孫文は大総統の座を袁世凱にゆずらざるをえなかった。この間、日本側は隣国に共和制ができるのをきらい、袁世凱に立憲君主制で事態を収拾するよう圧力をかけた。しかし、この動きは列国の中でも孤立しており、袁はイギリスの支援を受けて、この日本の干渉を無視していった。

  イギリスにリードされた列強の動きは、袁世凱を援助して事態を収拾させ、中国を安定した資本・商品の市場として、確保していこう とするものであった。立憲君主制問題でつまずいた日本は、中国への国際借款団の一員と しての地位を確保し、この動きこ追随する以外に独自の活動をする力も条件もなかった。国際借款団から巨額の資金援助を受けた袁世凱は、革命派に対する弾圧を強め、独裁体制を築いていくことになる。

  第一次世界大戦のぼっ発は、日本の側からみれば、このような情勢を打開し中国での、カをのばすための絶好の機会であった。開戦直後の1914(大正3)年8月7日、イギリスが東シナ海のドイツの武装商船を撃破するために、参戦してほしいと申し入れてくると、大隈内閣の外相加藤高明は好機至れりとして、さっそく元老や閣僚のあいだを飛び回り、翌8日夜には、戦争目的をドイツ武装商船の撃破に限定せず、東アジア全域で軍事行動をと れる形で参戦する、という方針に同意させた。

  8月23日にドイツに宣戦布告するや、日本軍はただちに軍事行動を開始し、10月19日までに赤道以北のドイツ領南洋諸島を、ついで11月7日には、青島など膠州湾租借地および山東半島のドイツ利権を占領した。



二十一か条要求

 日本の大戦参加のねらいが中国に向けられていることは、すぐさま明らかになった。開戦の翌1915(大正4)年1月には、日本政府は中国に対し、5号21か条におよぶ膨大な要求をつきつけて、中国側をおどろかせた。当時の日本の対中国政策では、関東州租借権および南満州鉄道の利権が(これはロシアと清朝との協約をそのままひきついだもの)、1922(大正11)年には満期になってしまうことが大きな問題となっていた。

  日本側には、これらの権益の期限がきたからといって、中国に返還する意志はまったくなく、したがって、なんらかの機会にこれらの権益の期間延長を、認めさせることが必要であった。日本政府は世界大戦で列強が中国問題に,積極的に取り組めない時期をねらって、この懸案を解決し、さらに多くの権益を獲得しようとしたのである。二十一か条要求は次のような内容のものであった。

 第1号(4か条) 山東省のドイツ権益日本とドイツのあいだで処分し、中国はその協定を承認することなど。

  第2号(7か粂) 旅順・大連の租借権、南満州鉄道などの利権をさらに99か年延長すること、南満州・東蒙古で、日本人の土地所有権・自由往来権・鉱山採掘権などを認めることなど。

 第3号(2か条) 漢冶萍煤鉄公司(漢陽・ 大冶・萍郷の石炭採掘と製鉄を主とする会社)を日中合併とすることなど。

  第4号(1か条) 中国沿岸や島を他国にゆずりわたしたり貸したりしないこと。

  第5号(7か条) 中国の中央政府に政治・ 財政・軍事顧問として有力な日本人をやとうこと、必要な地方の警察を日中合同とすること、日中合弁の兵器廠をつくること、南昌付近で新たな鉄道敷設権を認めることなど。

  これらの要求は、日本が単に満州のみでなく、中国全体の支配をねらっていることを示していた。袁世凱は交渉をひきのばして列強の支援を求め、アメリカやイギリスなどの関心も高まったが、戦争中のこととて積極的な行動には出られなかった。

  日本側も、さすがに第5号の露骨な要求は希望条項にすぎないとしたが、1〜4号については、部分的に修正しただけで、5月7日、 期限付きの最後通牒をつけ、力ずくでも実現させる構えをみせた。袁世凱も5月9日、つ いに屈服してこの要求を受け入れた。中国民衆は、5月7日および9日を「国恥記念日」と名づけ、このいわゆる二十一か条条約の効力を否認することは、以後の中国民族運動のもっとも大きな要求となっていった。



シベリア出兵

 第一次世界大戦は、戦前には予想もつかなかったはげしい戦いとなった。戦場では、飛行・戦車・毒ガスといった新兵器が登場し、国内では、生産力や労働力のすべてを、戦争に集中する総力戦体制を余儀なくされた。 戦争が長期化するにつれて、諸国の民衆の不満は増大していった。そして、もっともおくれた専制体制をしいていたロシアで革命がぽっ発し(1917年11月)、連合国の一角がくずれることになった。ソビエト政府は、すぐさま全交戦国に講和をよびかけ、翌1918年3月には、ドイツとの単独講和を実現させた。

  これに対してロシア革命に反対し、東部戦線の再建をくわだてる英仏は、南ロシアの反革命政権を援助すると同時に、アメリカと日本に、シベリアに出兵するよう申し入れていた。そしてさらに、チェコ軍団とソビエト政権の衝突が起こると、チェコ軍救援の名目で、シベリア出兵が強行されることになった。

  大戦当時チェコはオーストリアの支配下にあったが、独立を求めるチェコ人たちは戦争が始まると、進んでロシア軍に投降し、逆にオーストリア軍と戦おうとした。彼らはチェ コ軍団に編成されて、東部戦線に参加していたが、独ソ講和後、シベリア経由でひきあげる途中、チェリャビンスクでソビエト政権と衝突したのであった。

  1918年8月のシベリア出兵開始にさいして、日本軍1万2000人、米軍7000人、英仏軍5800人という兵力協定が行われたが、日本軍は事態の急迫を理由に独断で増兵し、7万2000の兵力をもって、約2か月でバイカル湖以東を制圧した。シベリアには列国軍に支援されたいくつもの反革命政権ができたが、民衆の支持を得られずに崩壊し、出兵軍もパルチザン (遊撃隊)活勤になやまされるようになった。

  もはや、革命を外から破壊することは不可能であった。1920(大正9)年1月、アメリカ はチェコ軍引揚げ完了を理由として撤兵にふみきり、英仏もこれにならったが、シベリアになんとか日本の勢力を残したい、と考え日本軍だけがシベリア出兵を続けた。

  そして1920年5月、ニコライエフスクでパルチザンに敗れた日本軍民が虐殺されるとう事件が起こると(尼港事件)、さらに北樺をも占領するに至った。しかし、国際的に孤立してきた日本は、なんの得るところも く、1922(大正11)年10月北樺太を除くタ リアから撤兵せざるをえなかった。北樺太からの撤兵を完了するのは1925年5月でありすでに日ソ基本条約が調印され、国交回復実現されたのちのことであった。



パリ講和会議と日本

 1918(大正7)年11月ドイツが連合国に降伏すると、戦争のあと始末をつける講和会議が、翌1919(大正8)年1月からパリで開た。戦争末期の1917年4月にはアメリカ、8月には中国が連合国側に参戦し、パリ集まった連合国代表は27か国に達した。すでに1918年1月に、アメリカ大統領ウィルソンは、講和の基礎となる14か条の方針を発表し、外交の公開、航海の自由、経済障壁の除去、民族自決などを唱えていた。彼の理想主義と、ドイツを無力化しその植民地を分割することこ重点をおいた英仏の主張とが、この講和会議の基調となっていた。

  日本は西園寺公望・牧野伸顕を中心とする全権団を送り、山東省の旧ドイツ権益の譲渡、赤道以北の旧ドイツ領南洋諸島の割譲、国際 連盟規約に人種平等の条項を加えること、という三つの要求を提出した。

  これに対して、まず中国が山東問題についてまっこうから反対した。中国代表は,二十一 か条条約は武力のおどしによって結ばれたのだから無効であり、山東の権益はドイツから 直接中国に返還されるべきだと主張した。そして、講和会議で日本の主張が認められると、講和条約への調印を拒否した。

  旧ドイツ植民地の処分については、ウィルソンは国際連盟が管理することを主張したが、けっきょく国際連盟が主要な国に統治を 委任することになり、委任統治領という形で攻勝国に分割された。日本も赤道以北の南洋諸島を委任統治領として獲得した。

  人種平等の要求は、移民問題などでの差別こ反対するというねらいをもったものであり、有色人種のあいだでは強い支持を受けた移民制限を行っているアメリカやオース トラリアの反対も強く、日本も将来の採用を 希望しただけで譲歩した。講和会議のさなかに朝鮮では3.1独立運動が起こっており、朝鮮人を差別し支配している日本が、差別撤廃を唱えてみても、強い説得力をもちえなかったのは当然であろう。

  講和条約は、会議開会約半年後の6月28日、 べルサイユ宮殿で調印されたが、その特色はドイツの処理と戦後の平和維持の問題とを組合わせている点にあった。講和条約は国際盟規約や国際労働規約をふくむ反面、ドイツに対して領土削減、軍備制限、1320億マルク という膨大な賠償金の支払いを命じており、戦勝国中心の国際秩序の永続化というねらいをもつものでもあった。

  日本は連盟常任理事国の一員となった。しかし、推進者であったはずのアメリカでは、「モンロー主義」(孤立不干渉主義)の勢力が強まり、条約が批准されないという事態が起こり、せっかくの国際連盟も、未熟な形で発足しなければならなかった。



朝鮮・中国の民族運動

 パリ講和会議で、民族自決の原則が唱えら れたことは、外国の支配下にある請民族に大きな影響をあたえた。日本の支配下に置かれ ている朝鮮人のあいだにも、この機会に独立を図ろうとする気運が高まった。アメリカ・上海・日本などにいる朝鮮人は活発に動きはじめ、朝鮮内部でも独立運動の準備が進められた。そして、1919(大正8)年3月1日を期 して、ソウルで独立宣言が発表され、「独立万歳」をさけぶデモンストレーショソが展開されると、運動はたちまちのうちに朝鮮全土に広がり、4月前半にかけて最高潮に達した。そして、 これに呼応して上海では、アメリカにいた李承晩を主席とする大韓民国臨時政府が樹立された。

  この「3.1独立運動」の高揚におどろいた日本政府は、軍隊を派遣して徹底した弾圧を 加えて運動を鎮圧し、また外国の援助をあてにした臨時政府もやがて消滅してしまうが、この事件が、日本の支配層にあたえた衝殖は大きかった。新任の朝鮮総督斎藤実は、「文化政治」を唱えて武断政治を改める方向を打ち出した。しかし実際には、憲兵が中心となっていた警察を普通警察に改めるとか、日本人の官吏や教員まで、サーベルを腰につっていたのをやめる、といった表面的なことにとどまり、治安警察機構はかえって強化された。

  日本軍が朝鮮で独立運動弾圧にあたっていたとき、中国でもはげしい反日民族運動がまき起こってきた。山東問題についての中国の主張がパリ講和会議で無視されたことは、中国民衆にとって大きなショックであった。このニュースを聞いた北京の学生たちは、1919 (大正8)年5月4日、「二十一か条を取り消 せ」「青島をかえせ」などのスローガンをかかげて、抗議デモに立ち上がった。

  この要求は民衆の支持を得て日本商品のボイコットなどに発展し、急速に全国に広がった。6月にはいると上海では、商店は店をしめ、労働者はストライキでこれに呼応するという大闘争に発展した。けっきょく政府も、運動を鎮静させるため、親日派の交通総長曹汝霖などを、罷免しなければならなくなった。

  この運動は、開始されたときの日付をとって、「5.4運動」とよばれ、その後の反帝国主義,反軍閥の大衆運動の出発点となり、その中から社会主義をめざす革命運動が、生まれてくることにもなった。それは二十一か条反対が、中国の民族的世論になっていたことをも意味している。二十一か条要求に基づく条約を不法、無効とする中国側は、地方官憲をもふくめて、この条約が日本人にあたえた権利を、実現させまいと努力するようになった。この日中の対立は、日本がこの条約の正当性を主張する限り、解決しにくい形で永続化し、激化していくほかはなかった。

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