資本主義の発展と都市化の進行は、小市民とよばれる階層を増大させた。これらの階層は個人主義的な文化を受け入れ、拡大させる基盤となった。しかし、無産階級の政治運動や社会運動が発展してくると、文化の面でも、市民的な立場をこえて、階級的な観点から社会の変革に参加しようとする動きも、現れてきた。
白樺派
大正期には、さまざまな形で個人主義が主張され、個性を発展させることが価値ある生き方と考えられるようになった。そしてそのような方向を推し進めるうえで、大きな役割を果たしたのが、雑誌『白樺』を中心に形成された白樺派であった。『白樺』は武者小路実篤・志賀直哉・有島武郎などを同人として、1910(明治43)年に創刊されているが、同人はいずれも学習院出身の上流階級の子弟であり、自分の個性を発展させるのが最良の生き方だと考えている点も共通であった。その点で「自己を生かす」ことが「人類の意志」に合致すると主張した武者小路実篤は、この派を代表する作家であった。
『白樺』発刊当時はまだ自然主義文学の全盛期であったが、無思想・無解決を唱え、懐疑や否定によって、既成の道徳のベールをはがそうとする自然主義文学の暗い色調に比べると、白樺派の自己主張は楽天的であり、率直であった。また武者小路が、「ロダンやゴッホを友達と思う自分になりたい」「自分達は精神的に世界の子になっている」と書いているような、国家や民族にとらわれない世界主義的な芸術意識は、ひじょうに新鮮なものに感じられた。
芥川龍之介は白樺派を「文壇の天窓を開け放って、さわやかな空気を入れた」と評しているが、このような白樺派の性格はデモクラシーの風潮ともマッチしており、関東大震災に至るまで大正文学の中心に位置するようになった。
市民文学と私小説
大戦景気の始まった1916〜17年ごろから、白樺派に新鮮な魅力を感じて文学の道にはいった芥川龍之介など、よりわかい作家たちが登場してきた。芥川らの同人雑誌『新思潮』には山本有三・菊池寛・久米正雄がいたし、永井荷風の主催した『三田文学』からは水上滝太郎・久保田万太郎・佐藤春夫などが出た。また室生犀星・広津和郎・宇野浩二らが、作家としての地位を固めたのもこのころである。
日露戦争後に青年期をむかえたこれらの作家たちは、小市民的な個人意識を身につけており、生活様式の近代化や都市化が進むなかで、社会生活のゆがみや社会通念がふくんでいる偽善性(うわべだけの善行)などに、目を向けないではいられなかった。彼らはもはや、武者小路のように人間の善意を楽観的に信ずることはできなかった。
彼らは近代人の心理の構造や矛盾をほりさげ、古い倫理観や通念を批判したり、孤独とけん怠感にいろどられた近代人の自意識や、小市民的な人生苦をえがき出していた。そして、そこから現実と妥協した倫理観を基礎として、自分自身の心理や意識をつきつめていこうとする傾向も強まった。
自分自身を素材とする文学は、すでに人間の自然をえぐり出そうとする自然主義のなかからも、「自己のため」をモットーとした白樺派のなかからも生まれていた。自然主義作家島崎藤村の『新生』(1918〜19年)にしろ、白樺派の志賀直哉の『暗夜行路』(1921〜37年)にしろ、みずからの生活に素材を求めた点では共通であった。また大正期には、貧困と孤独の破滅的な生活を送り、それを作品化していった葛西善蔵のような作家も現れた。
このような自己の生活の真実のみに固執し、物語性を「つくりもの」として拒否する作品が私小説とよばれ、大正後期にはそれが文学の本流だとする考え方が強まっていった。それは文学を、みずからの内部を見つめ、きたえていく一種の人間修行として、意味づけようとする考え方であった。
プロレタリア文学
主な文芸雑誌とその掲載作品(大正〜昭和初期)
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白樺(1910〜23) |
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新思潮 [第3次](1914)
[第4次](1916〜17) |
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三田文学(1910〜25) |
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早稲田文学[第2次](1906〜27) |
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文芸時代(1924〜27) |
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文芸戦線(1924〜32) |
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戦旗(1928〜31) |
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関東大震災は、文学史のうえでも1つの画期をつくり出していた。震災により『白樺』が廃刊になると、翌1924(大正13)年6月には、プロレタリア文学運動の出発点となった『文芸戦線』が、ついで10月には新感覚派とよばれるようになった『文芸時代』が創刊された。
大正期になると、労働者の生活が作品の素材としてとりあげられるようになってきたが、プロレタリア文学はそれをさらに発展させて、文学活動を階級闘争の一環として位置づけようとした点に特徴があった。そうした問題は震災で廃刊になった『種蒔く人』(1921年創刊)誌上で論議されはじめていたが、『文芸戦線』になると、青野季吉が「目的意識論」を唱え、プロレタリア文学運動の基盤をつくり出すうえで画期的役割を果たした。
彼は、プロレタリア文学は単に労働者の生活を描くだけでなく、階級闘争を進めるという自覚的な問題意識を、文学のなかに確立しなければならないと主張した。この青野の論をめぐって、目的意識とは何かについてのはげしい論争が展開され、そのなかから、文学をよりせまい意味の政治闘争に従属させようとする主張が現れてきた。この派は、日本共産党の政治路線と密着し、1928(昭和3)年『戦旗』を創刊して『文芸戦線』と対立し、小林多喜二・徳永直などのすぐれた作品を発表することで、プロレタリア文学運動の主導権をにぎっていった。
しかし、これらの作家たちは、治安維持法によるはげしい弾圧にさらされた。小林多喜二は1933(昭和8)年2月、警察の拷問によって虐殺されたし、また転向を表明してプロレタリア文学運動から身を引いた作家も多かった。1934(昭和9)年3月の全日本プロレタリア文化連盟の解散は、プロレタリア文学運動の壊滅を告げるものであった。
新感覚派
「新感覚派」とは、評論家の千葉亀雄が、『文芸時代』の同人たち(横光利一・川端康成・中河与一・片岡鉄平ら)を評したことばであった。確かに彼らは、政治にかたむいたプロレタリア文学に対して、感覚を重視した文学をつくろうとしていた。 彼らに共通していたのは、感覚的はあくを文学の中心に置き、それにふさわしい感覚的表現を生み出そうとする態度であった。たとえば、横光は『文芸時代』創刊号に『頭ならびに腹』という、破格な題名の小説を発表したが、そのなかの
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「真昼である。特別急行列車は満員のまま全速力で駆けていた。沿線の小駅は石のように黙殺された。」 |
という書き出しは、当時ではまったく斬新な感覚的な表現であった。
新感覚派の試みは、ヨーロッパのいわゆる前衛芸術(時代の先がけとなる新傾向の芸術)の影響のもとに、新しい文学意識を打ち立てようとしたものであり、震災復興過程での都市文化の発展、さらには機械文明のもとで、感覚的な享楽を求めようとするふんい気にささえられていた。
新感覚派の作家たちは、片岡鉄平がプロレタリア文学運動に加わったり、横光利一が「感覚」から「心理」に進んだように、昭和にはいると、それぞれ異なった道に歩んでいったが、新感覚派の活動は、大正文学とは異なった昭和文学の性格をつくり出すうえで、大きな役割を果たしたものといえる。
美術の発展
『白樺』は、単なる文学雑誌ではなく有島生馬・高村光太郎などの美術家などを同人に加えた美術雑誌でもあった。当時まだめずらしかった西洋美術の図版を豊富に掲載したこの雑誌は、美術鑑賞を普及させるうえで大きな役割を果たしたし、また、ロダンやセザンヌの紹介は、大正期の美術を方向づけた。
ロダンのことばを精力的に訳出した高村は、詩人であると同時に彫刻家であったが、すでに1910(明治43)年に評論『緑色の太陽』を発表し、太陽を緑色にえがくことも芸術家の個性として認めるべきだと主張した。それは白樺派の個性の主張に重なり合うとともに、明治洋画界を支配した黒田清輝らの外光派に対する反抗の宣言として、美術界に大きな影響をあたえたものであった。大正期の美術は、こうした新しい造形態度を基礎にして、ヨーロッパの後期印象派以後のさまざまな試みを吸収するという形で展開された。
1912(大正1)年のフェーザン会の結成は、美術界の新しい動きの最初の現れであった。フェーザン会は2回の展覧会を開いただけで解散してしまったが、1914(大正3)年になると、これまで美術界を牛耳ってきた文展(文部省展覧会)派に対抗する在野の団体として、二科会が創立され、大きな影響力をもった。
このころには、安井曽太郎や梅原龍三郎が新しい技法や感覚をひっさげてフランスから帰国し、坂本繁二郎は印象派をこえる視覚の世界をつくり出そうと模索していた。また岸田劉生は徹底した細密描写で、質感・重量感のはあくを成しとげ、万鉄五郎はフォービズム(野獣派)からキュービズム(立体派)に至る造形方法と対決しながら、みずからの個性を展開していった。大正期には、ヨーロッパの思考態度や方法を受け入れながら、それを真に自分のものとするさまざまな試みがなされているのであり、日本の近代美術が確立されたのは、この時期であった。さらに関東大震災後になると、未来派・表現派・超現実主義といった、いわゆる前衛芸術が紹介、輸入され、またプロレタリア文学に対応するプロレタリア美術の運動も、展開されていくことになった。
こうした西欧的近代美術の発展は、長い伝統をもつ日本画の世界にも大きな影響をあたえた。すでに成熟期にはいった横山大観・下村観山(ともに日本美術院の再興に当たる)についで登場してくる、今村紫紅・小林古径・土田麦僊・村上華岳らは、一方で狩野派の伝統を中心にすえた明治期の日本画に対して、より広く伝統を追求するとともに、他方では近代美術の思考や方法にも目を向けながら、それぞれ独自の世界をつくり出していった。
新しい教育の試み
こうした新しい文化の基盤を成していたのは、経済の発展によるサラリーマンや中産階級の増大であり、またそれらを生み出した中等・高等教育の拡大であった。明治中期まで東京に置かれただけだった帝国大学は、1897(明治30)年京都、1907(明治40)年東北、1910(明治43)年九州、1918(大正7)年北海道とあいついで設置され、また1918年の大学令によって公私立の大学や単科大学の設置が認められると、以後大学は急増し、多くの大学生を社会に送り出すようになった。そしてそれにともなって、中等学校や実業学校もしだいに増設されていった。
大正期の教育は、こうした学校や学生・生徒の数がふえたというだけではなく、教育内容についても新しい試みが行なわれるようになった点に特徴があった。大正デモクラシーの風潮のもとで、国家主義や軍国主義が批判され、個性を自由にのばすことに主眼を置いた教育が試みられ、また新しい理論の実践をめざす学校もつぎつぎにつくられていった。沢柳政太郎の成城小学校(1917年)、中村春二の成蹊実務学校(1912年)、羽仁もと子の自由学園(1921年)、赤井米吉の明星学園(1924年)、野口援太郎の児童の村小学校(1924年)などは、いずれも国定教科書の画一的教育に反対し、創造的、個性的教育を試みたものであった。
これらのさまざまな試みに対応して、既成の学校制度のなかでも、画一的なおしつけ教育や「修身」および「国史」国家主義的、軍国主義的な内容を批判する教師たちがふえていった。たとえば、白樺派の影響の強かった長野県の小学校では、模写を強制することをやめて、記憶や想像をふくんだ自由な創造を重視する自由画運動が行われたり、国が定めた教科書を拒否して、自分で教材を選ぶ教師たちも現れていた。
また1918(大正7)年、鈴木三重吉によって創刊され、新鮮な童話や童謡を発表して大きな反響をよんだ『赤い鳥』も、こうした新しい教育運動の一翼をになおうとしたものであった。鈴木は個性のないありきたりな記述をおしつける綴り方教育に反対し、子どもの実感を引き出してこなければ、すぐれた作品は生まれないと主張した。そして『赤い鳥』をそうした子どもたちのすぐれた作品を生み出すための機関誌にしようとしていた。
綴り方教育はのちにマルクス主義の立場からも注目されるようになり、階級社会を実感としてとらえようとする生活綴り方運動が、展開されることにもなった。
新聞の大衆化と大衆雑誌
都市人口、とくにサラリーマン層の増加、教育の普及、交通機関の発達などとともに、輪転機・通信機・写真・映画・録音などの新しい技術が輸入されてくると、大衆を相手とした文化産業が生まれてくることになる。新聞はその代表的なものであり。新聞の発達は、文化についての情報を広め、文化的水準を平準化していく作用をもつものであった。
明治前半期の新聞は、政治批判などの論説によって識者にうったえかけることを目的としたものと、社会や風俗を中心に、万人に読ませることを目的とした新聞とに分かれており、前者が「大新聞」、後者が「小新聞」とよばれていた。しかし新聞の読者がふえるにつれて、社説や論説よりも、記事そのものが大衆に働きかけるうえで、大きな力をもつようになってくると、新聞も報道を中心とし、文芸・スポーツ・婦人欄などの娯楽的、大衆的な記事にも力を入れるようになった。
第一次世界大戦やワシントン会議をめぐるはげしい取材合戦によって、新聞のニュース本位の性格は決定的となり、また取材網の拡充にも大きな資金を必要とするようになった。新聞社の資本金は飛躍的に増額され、第一次世界大戦後には、超高速輪転機を導入し、販売部数拡大のためのはげしい競争が展開されることになった。元来、大阪で発刊された『朝日新聞』と『毎日新聞』が、東京での地位を固めて全国紙となるのは、関東大震災後のことであり、昭和になると正力松太郎の精力的な経営で立ち直った『読売新聞』が、この2者をはげしく追い上げてゆくことになる。
新聞の普及は大衆に活字を読む習慣をつけるうえで大きな役割を果たしており、大衆的な活字文化が生まれる基盤をつくり出すことにもなった。最初の大衆紙として成功したのは、野間清治が1911(明治44)年に発刊した『講談倶楽部』であったが、そのねらいは寄席の出し物を活字にして、大衆に娯楽を提供しようというところにあった。はじめは速記にたよっていた野間は、やがて、小説家に講談のような物語を書かせる方向に進み、大衆文学の形成をうながすことになった。一労働者であった吉川英治が、新講談の募集に当選し作家への道を歩みはじめたのは、1914(大正3)年のことであった。野間はさらに、大衆雑誌の対象を子どもや婦人にも広げ、『少年倶楽部』(1914年)、『婦人倶楽部』(1920年)、『少女倶楽部』(1923年)などを発刊した。大正後半からは多くの大衆雑誌が、あいついで発刊されるようになった。
大正末期から昭和になると、より高度な読み物への需要も増大し、安い値段で大部数を売るという企画も可能になってきた。1926(大正15)年11月、改造社が小さな活字でぎっしり組み込んだ『現代日本文学全集』を1冊1円で発行すると、同じような1円本がつぎつぎと企画され、「円本」とよばれるようになった。1927(昭和2)年の岩波文庫についで、つぎつぎと小型で安価な文庫本がつくられるようになったのも、こうした読者層の拡大を反映するものであった。
大衆文化の形成
単に活字の領域ばかりでなく、あらゆる分野で大衆を対象とした文化活動が企業として成立してきた。明治から大正にかわる1912年には、日本蓄音機商会と、日本活動フィルム株式会社とが成立している。前者は「コロンビア」の前身となるレコード会社であり、後者は「日活」に発展する映画会社であるが、この両者の発足は、レコードや映画が企業としてなりたつようになったことを示していたし、それはまた、他の分野での大衆文化の発達と対応したものであった。
たとえば、映画は講談・義太夫・芝居などで、これまですでに大衆に親しまれてきたものを題材としていた。ギョロリとした目玉をむき出して「目玉の松ちゃん」とよばれた尾上松之助が豪傑・忍術使い・剣豪などを演ずる松之助映画は、初期の映画を代表するものであった。浪曲から始まったレコードは、「カチューシャの唄」などのように、好評を得た劇中歌をふきこんでいくようになった。そしてそこから、以後の流行歌の原型がつくられていくことにもなった。
映画は最初は無声であり、弁士の声色とともに上演されていたが、満州事変ののちにはトーキーの技術が取り入れられ、1932(昭和7)年には、トーキー化に反対する弁士や楽士の争議が起こるという一幕もあった。しかし同時に、映画独自の技術的可能性を十分に使っていこうとする試みも生まれてきた。
新しい技術が新しいマス=メディアを生み出した、もっともよい例はラジオであった。アメリカで1920年にラジオ放送が始められたことは、日本でも大きな関心をもってむかえられ、はやくも1922年には新聞社が試験的な放送を行っている。この新しいメディアを民営とするか官営にするかで、はげしい論議が行われたが、けっきょくラジオは政府の統制化に置かれた。
1925(大正14)年3月に放送を開始したとき、5千台にすぎなかったラジオは、1928(昭和3)年にははやくも50万台をこえるという予想外のスピードで普及した。そして満州事変以後の戦争の時代になり、身近な人々が戦場に出て行くにしたがって、ラジオの需要はうなぎ上りに急増した。満州事変ぼっ発の翌年の1932年には100万台を、太平洋戦争開始前年の1940年には500万台を突破する。しかし、こうして急速に普及したラジオは、国民統制の有力な手段として利用されることにもなった。戦争が激化するにしたがって、国民はラジオによって、指導者たちの怒号を聞かされることになるのであった。
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