『エリア教科事典』1日本歴史

1975年10月

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大正デモクラシー

古屋 哲夫

 

1憲政擁護運動と大正政変
2第一次世界大戦と日本
3デモクラシー思想と社会運動
4政党政治の展開
5市民生活と文化

3デモクラシー思想と社会運動
民本主義
天皇機関説
大戦景気と米騒動
労働運動の発展


小作争議と農民運動
共産党の出現
水平運動始まる
立ち上がる婦人たち


3デモクラシー思想と社会運動


 第一次世界大戦以後、日本にもデモクラシーの思想が広まり、さらにロシア革命の成功から社会主義への関心も高まった。それにともなって、民衆の権利や利益を主張する運動が、さまざまな方面から起こってきた。



民本主義

  日本にデモクラシーの思想が普及しはじめたのは、第一次世界大戦の時期からであった。そして大戦後には、「デモクラシー」という用語も広く用いられるようになってきた。しかしこの思想が、主権は天皇にあることを明記した「大日本帝国憲法」と矛盾する面をもっていることは明らかであった。そこで、デモクラシーのなかの主権に関する理論を受け入れようというのが、民本主義の主張であった。

 民本主義を最初に唱えたのは、当時東京帝国大学教授になったばかり(1914年に就任)の吉野作造であった。彼は1916(大正5)年に発表した論文で、民本主義を正面から打ち出したのであるが、そこでデモクラシーと民本主義の関係を次のように述べている。

 彼はまずデモクラシーは2つのちがった意味に用いられているという。その1つは「国家の主権は法理上人民にあり」という意味であり、この場合には「民主主義」の訳語をあてるのが適当である。しかし、デモクラシーには「国家主権の活動の基本的な目標は、政治上人民にあるべし」つまり人民の幸福を増進することが、主権を行使するにあたっての基本的目標でなければならないという意味もあり、この意味でのデモクラシーを、いちばんよく表している用語が民本主義だというのである。

 吉野は、この「民主主義」の意味でのデモクラシーは、日本に通用しないが、君主主権と衝突しない「民本主義」の意味でのデモクラシーは、日本でも政治上の基本原則にしなければならないというのであった。いいかえれば、民本主義は天皇主権のわくのなかで、できるだけ一般民衆の利益と意志を尊重していこうという考え方であった。そして、それは憲法学における「天皇機関説」と呼応するものでもあった。



天皇機関説

  天皇機関説は、吉野と同じ東京帝国大学の教授であった美濃部達吉が、明治末年から主張していたものであった。彼は、天皇が日本帝国を統治するという憲法の規定は、天皇個人に統治権が帰属するという意味ではなく、統治権は国家という団体に帰属する権利だと理解しなくてはならない、と主張した。したがってこの主張では、天皇は国家という団体のために統治権を運用する「機関」として位置づけられることになった。天皇機関説は、天皇よりも国民の集まりとしての国家を前面におしだすことによって、国民のための政治を求めたものであり、その点で民本主義と同じ性格をもつものであった。



大戦景気と米騒動


  民本主義思想の影響が広がりつつあったところへ、今度は民衆自身が指導者も組織もなしに米騒動に立ち上がって、日本全土をゆるがせるという大事件が起きた。

 第一次世界大戦が始まった翌々年の1916(大正5)年になると、日本経済は、それまでの不景気を一気にふきとばしてしまうような、異常なほどの好景気となった。予想外の消耗戦を戦っているヨーロッパ諸国の需要と、それらの国々からの輸出がとだえた市場への進出によって、輸出は急増し、造船業・鉄鋼業・紡績業・電力業などが飛躍的に発展し、新しい化学工業も始められた。工業動力の過半が電動機になり、日本もようやく本格的な工業国となってきた。大もうけした成金、ことに船成金たちの生活ぶりが、話題をにぎわした。

 しかし反面、物価もうなぎ上りに上がりはじめてきた。とくに、都市人口の急増によって需要がのびた米は、投機的な買い占めの対象とされ、1918(大正7)年にはいると、米価は、はずみがついたように暴騰しはじめた。6月には1升(約1.4キロ)35銭だった中等米が、シベリア出兵の行なわれた8月には50銭でも買えなくなった。民衆は生活を守るためには、行動にうったえなくてはならなくなった。

 最初に立ち上がったのは、富山県下の漁師の主婦たちであった。7月23日、下新川郡魚津(現在の魚津市)の海岸に、米の県外移出を阻止しようとして主婦たちが集まったのをきっかけとして、米商や有力者に米の安売りを要求しておしかけるという動きが広まった。

 8月10日から1週間のうちに、騒動はすべての都市と多くの中小都市に広がり。米商や買い占めでもうけた商人や富豪の家が打ちこわされた。そして、ついに軍隊が出動しなければならなくなった。その後9月中旬に至るまで、米騒動は農村や炭鉱地方にも波及し、38市153町178村で騒動の記録が残されている。この50日にわたった米騒動は、自然発生的なものであり、組織も計画性もなく政治的要求もみられなかったが、初の本格的政党内閣である原敬内閣を出現させるきっかけとなり、社会運動発展の画期をなすものとなった。



労働運動の発展

  米騒動のちょうど1年後、1919(大正8)年8月末に開かれた友愛会大会で、会名が大日本労働総同盟友愛会と改められたことは、労働運動の発展を象徴する出来事であった。

 友愛会は、大逆事件後の強い圧迫を受けて、社会運動が沈滞していた1912(大正1)年、鈴木文治が親ぼく的な労働団体として結成したものであった。彼は官憲の圧迫の強い労働組合をさけて、共済と相互扶助、修養と努力による地位の改善といった綱領をかかげ、多くの名士を顧問にして労使協調の立場でこの団体を指導し、組織を急速に発展させていった。最初15人だった会員は、5年後の1917(大正6)年には、3万人に近づいていた。

 そして、大戦景気のもとで、待遇改善を求める労働者の闘争を指導するようになると、しだいに親ぼく的な性格を脱して、本格的な労働組合となり、階級的な闘争性を強めていった。会名の変更はこのような性格の変化を示すものであり、さらにその翌1920(大正9)年には、「日本労働総同盟」(総同盟)と改められ、友愛会の文字は姿を消していった。

 好景気が始まった1916(大正5)年ごろから、賃金引上げを要求する労働争議も続発するようになり、以後、労働運動は1918〜1919(大正7〜8)年には、戦前のピークをなすほどの急速な発展を示した。パリ講和会議で国際労働規約が可決されたこともあって、8時間労働制の要求が広がり、サボタージュやストライキを一般投票できめる新しい戦術も現れ、社会主義思想も労働運動のなかに広まっていった。また1920年には、日本最初のメーデーも行われた。

 しかし、1920(大正9)年の戦後恐慌以後の慢性的不況が始まると、人員整理をねらう資本家側の反撃が強まり、争議も長期化、深刻化するようになった。開業以来燃え続けた溶鉱炉の火を消した1920(大正9)年の八幡製鉄所争議では、警察の弾圧で350人という大量の検挙者が出たし、また翌年、2つの造船所の労働者が単一の争議団をつくって立ち上がった、神戸の川崎・三菱両造船所争議ではついに軍隊が介入し、争議団は惨敗宣言を認めざるをえなかった。

 こうして情勢が悪化するにしたがって、その打開策をめぐって、アナルコ=サンジカリズム(社会主義政党の指導を認めず、労働組合の直接行動によって革命を達成しようとする主義)対ボルシェビズム(マルクス主義政党の指導と、労働者・農民との同盟によって革命をなしとげようとする主義)、ボルシェビズム対現実主義といったイデオロギー的対立が激化し、そこにまた無産政党結成の問題がからんでくると、労働運動は組織的分裂をくり返すようになっていった。



小作争議と農民運動

  労働運動がさかんになったことは、農村の小作人にも大きな刺激となり、各地で、小作料の減免を要求する小作人争議が、起こされるようになった。とくに、戦後恐慌は農村にも深刻な打撃をあたえており、恐慌が起こった1921(大正10)年の小作争議件数は、いっきょに前年の4倍にはね上がり、農民運動発展の画期となっている。そしてそれと同時に農民組合の組織化も、デモクラシー運動や労働運動のにない手に助けられながら、急速に進んでいった。

 最初の全国的組合として1922(大正11)年4月に結成された日本農民組合(日農)は、川崎・三菱両造船所争議のリーダーの1人だった賀川豊彦が、杉山元治郎と協力してつくりあげたものであり、発足当初は関西中心の組織であった。ついでその約半年後の11月には、日本農民組合関東同盟が結成されたが、これをよびかけたのは総同盟会長の鈴木文治であり、そこには早稲田大学のデモクラシー運動のにない手であった建設者同盟から、三宅正一・浅沼稲治郎・稲村隆一らが参加していた。

 関東同盟はやがて日農に加盟し、日農は名実ともに全国的組織となっていくが、その発展はめざましく、結成時の15組合253人が、2年めの1924(大正13)年末には、6594組合5万8086人と急膨張している。それとともに運動面でも小作地経営の収支決算表をつくり、それを根拠にして小作料永久3割減を要求するとか、小作料全額を未納にし、組合が作物を管理するなど攻撃的戦術をとって、地主をおどろかせた。

 しかし地主側も反撃に転じ、地主組合を結成して裁判所に仮処分を求め、収穫前の稲をさしおさえたり、耕地を立入禁止処分にするなどの戦術で対抗するようになった。そのうえ不況が慢性化して、失業した労働者が農村に帰ってくるようになると、小作人の運動も苦境にたたされるようになり、土地取上げ反対といった、防御的な争議が多くなっていった。そして、そこにイデオロギーの対立がもちこまれ、組織の分裂がくり返されるようになることは、労働運動の場合と同じであった。



共産党の出現

  イデオロギー的対立の激化は、ロシア革命の理論としてのボルシェビズムが取り入れられ、革命をめざす共産党が、国際的な組織と結びつきながら結成されてきたことと関係していた。ロシア革命の成功は、それまでの理論のうえだけで説かれてきたプロレタリア革命が、はじめて現実のものとなったという意味で、大きな感銘をもってむかえられた。デモクラシー運動や労働運動に加わってきた青年たちのなかにも、社会主義への関心が広がった。1920(大正9)年12月に創立された日本社会主義同盟は、大逆事件以来小さなグループに分散していた青年たちの大同団結した組織であり、社会主義運動の再出発を告げるものであった。日本社会主義同盟は半年で結社禁止処分(1921年5月)にされてしまったが、このような新しい機運をおしとどめることはできなかった。

 ちょうどそのころ、1919(大正8)年にモスクワで共産主義者の国際組織として結成されたコミンテルンが、欧米以外の諸民族への働きかけを始めており、1922(大正11)年1月には、モスクワで極東民族大会を開催した。そしてこの会議に参加した徳田球一らは、帰国後すでにボルシェビズム支持の立場を明らかにしていた山川均・堺利彦らに働きかけ、1922(大正11)年7月15日、秘密のうちに日本共産党を結成した。

 しかし翌年6月一斉検挙にあい、つづいて関東大震災の混乱が起こると、いちじ解党論が多数をしめ、解党が決議されるに至ったが、コミンテルンは再建を指示し、1926(大正15)年12月には秘密の再建大会が開かれている。共産党は日本労働総同盟から分裂した日本労働組合評議会を、その強い影響下において活動の基盤にし、また活発なイデオロギー闘争を展開して、文化や社会科学の分野での影響力をも急速に強めていった。



水平運動始まる

  デモクラシーや社会主義の思想が広まり、また労働運動が現実の力となってくると、これまで社会の最下層におしこめられ、差別と迫害を加えられてきた被差別部落の人々も、みずからの解放を求めて立ち上がるようになった。そのきっかけとなったのは、米騒動でもあった。関西の米騒動に、日ごろ差別されつづけてきた部落民が大挙して参加し、はげしい行動に出たことは政府をおどろかせた。大正9年度から「地方改善費」の名目で被差別部落に対する予算が出されるようになったが、部落の人々のあいだにはそうした上からの恩恵にすがらずに、自分たちの団結した力で解放をかちとるべきだという考えが広がった。

 1922(大正11)年3月3日、全国から2000人の代表が集まって京都で全国水平社の創立大会が開かれた。大会は「部落民自身の行動によって絶対の解放を期す」という綱領と、差別的な言行を行った者に対しては、徹底的な糾弾を行う、という行動方針を決定した。差別糾弾闘争は、差別や侮辱を加えた者に謝罪させ、謝罪の事実を公表させるという形で展開されたが、そこには差別観念をなくせば差別もなくなる、という考え方が基礎になっていた。

 しかし、社会主義の影響を受けた青年は、差別が温存されるのは、労働者・農民の下に被差別部落を固定化することが、資本主義にとって利益だからであり、したがって、解放運動は階級闘争の一環として、たたかわれるべきだと主張するようになった。この主張は、1926(大正15)年の水平社第5回大会で認められ、綱領に「明確なる階級意識のうえに立って運動を進める」という1項が加えられた。そして以後の運動は、軍隊・官庁・裁判所などに対する差別糾弾闘争が中心とされるようになっていった。



立ち上がる婦人たち

  明治時代における女性の地位は、今日では考えられないほど低くおさえられていた。民法は、妻は夫の許可なしに財産権を行使できないことにして、財産管理能力がないものとみなし、治安警察法は、婦人と未成年者を同列においてその政治活動を全面的に禁止した。同法第5条によれば、婦人は政治結社に加入できないばかりでなく、公開の「政談集会」の発起人になったり、たんに出席しただけでも処罰されることになっていた。こうした情勢のもとでは、婦人が社会運動にのり出していくことは、容易なことではなかった。

 婦人たちだけによる最初の独自な運動は、1911(明治44)年に平塚雷鳥らが結成した青鞜社の運動であった。彼女らの目的は、「女流文学の発展を計り」「他日女流の天才を生まん事を目的とす」と、青鞜社規則が述べられているように、雑誌『青鞜』による文学的自己主張をめざしたものであった。

 しかし、当時の社会には、この女だけの集団を好奇の目で見る傾向が強く、また家族制度破壊、風俗壊乱といった名目で圧迫が加えられるようになると、彼女らも社会的な問題に目を向けざるをえなくなっていった。同時にまた、第一次世界大戦後には社会主義に関心をよせ、社会主義によって婦人の解放を実現しようとする運動も現れてきた。

 1920(大正9)年3月、平塚雷鳥は市川房江・奥むめおらとともに、男女の機会均等、婦人・母・子どもの権利の擁護などのスローガンをかかげて、新婦人協会を結成し、治安警察法第5条改正の請願活動などを始めた。

 ついで翌1921年4月には、山川菊栄・堺真柄・久津見房子らによって社会主義的婦人団体の赤瀾会が組織され、赤旗をひるがえしてメーデーに参加し注目を集めたが、官憲の圧迫は強くながつづきしなかった。これより先、1916年に友愛会に婦人部が設置され、1924年には日本農民組合に婦人部が設けられて、労働組合・農民組合・無産政党などに婦人部が置かれるようになった。しかし、権利の面では1922(大正11)年の治安警察法改正で、政治集会への出席が認められただけで、それ以上の拡張は、第二次世界大戦後までもちこされた。

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