『新修 大津市史』5 近代

1982年7月

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第2章 大津事件


「県会と国会」




 

古屋哲夫

初期の県会
自由民権運動
最初の衆議院議員選挙

初期の県会
最初の県会議員選挙

デフレ政策と滋賀県会


初期の県会



最初の県会議員選挙


  西南戦争で士族反乱の鎮圧を終えた明治政府が、翌明治11年(1878)に三新法(郡区町村編制法・府県会規則・地方税規則)を制定して地方制度の再編に乗り出したことはすでに述べたが、滋賀県でも明治11年から12年にかけては、三新法の施行が大きな問題となっている(第1章第1節参照)。  

  籠手田安定滋賀県令(現在の知事)は、三新法公布直後の明治11年7月31日には早くも、まず県会議員を選挙して県会を開き、次いでこの県会の意見を聞いて新しい郡制を施行し、さらには郡長も県会での投票によって決めるといった方針を立て、内務省にその実施について伺いを立てた。しかしこの方針は、大区小区制に代えて自治体として旧来の町村を公認する代わりに、新たに郡庁を設け官選の郡長を置いて町村を統制しようという三新法の構想と対立するものであり、山県有朋内務卿によって拒否されてしまった。これに対して籠手田県令はさらに明治11年9月19日、広く人材を求めるために県会で投票させ郡長任用の参考にするとの一歩後退した案で再度の伺いを出したが、これもまた拒否されている。  

表11 県会議員選挙権者・被選挙権者数一覧(明治16年)

郡名

人口(人)

選挙権者(人)

同前対人口比(%)

被選挙権者(人)

県議定員(人)

滋賀郡
栗太郡
野洲郡
甲賀郡
蒲生郡
神崎郡
愛知郡
犬上郡
坂田郡
東浅井郡
伊香郡
西浅井郡
高島郡

61,960
46,090
38,012
66,316
87,367
37,848
43,958
69,182
63,888
36,188
23,799
7,391
49,501

2,852
3,788
3,484
6,196
7,846
2,873
3,854
2,791
5,580
3,872
2,254
576
3,826

4.60
8.22
9.16
9.34
8.98
7.59
8.77
4.03
8.73
10.70
9.47
7.79
7.73

1,645
2,331
2,181
3,573
5,107
1,628
2,348
1,853
2,786
2,027
1,384
296
2,201

5
4
4
5
5
4
4
5
5
3
3
1
4

計(平均)

631,500

49,792

(7.88)

29,360

52

(注)
1.明治16年『滋賀県統計書』による。
2.人口は1月1日現在。選挙・被選挙権者数は3月1日現在。

 
  その後滋賀県では明治11年12月5日、各郡の議員定数とともに県会議員投票心得を公布しているが(明治11年12月15日付『淡海新聞』)、まず議員定数をみると、当時の管轄区域であった越前・若狭(以上福井県)の四郡を合めて、郡ごとに人口を基準に決め、合計64名とされた。人口の基準は、人口5万人以上の大郡が5名、3万5千人以上の中郡が4名、それ以下の小郡が3名とされていた(『滋賀県議会史』第1巻)。これに対 して選挙権は、地租(土地税)5円以上納入を条件 としていたから、人口を基準とした定数と有権者数とはいちじるしい不均衡を示すこととなった(表11参照)。また、人口に対する有権者比率には 大きなばらつきがみられるが、大津や彦根といっ た大きな市街地を合む滋賀郡・犬上郡はきわめて低い数値を示しており、有権者は農村の地主層を中心とするものであったことがうかがえる。なお、表11で定員数が52名となっているのは、明治14年に、大飯・遠敷・三方・敦賀の若越四郡が福井県に分割されたことなどによる。
  投票方法は、連記・記名制を特徴としており、投票者は、定員数だけ選挙する人名を連記したうえ、自分の族籍(華士族・平民の別)・姓名を書き、印を押して封緘しなければならないとされた。

  実際の選挙は、明治12年2月8日の大津南町顕証寺(札の辻)での滋賀郡選挙会から始められ、同年3月18日まで、順次他の郡でも行なわれた。滋賀郡では、雄琴村の辻井太兵衛、本堅田村の辻平吾、下龍華村の榎利兵衛、坂本村の中邑庄右衛門、榎村(志賀町)の中村利兵衛ら5名が、栗太郡では関津村の上野九八、小柿村(栗東町)の中村喜一郎、東坂村(同前)の鵜飼退蔵、大萱村の間官金四郎ら4名が当選した。当選議員たちは4月15日県庁に召集され、同月20日からいよいよ最初の滋賀県会が開会されることになった。

  当初、県会議場として利用されたのは、滋賀郡選挙会場にも使われた顕証寺であったが、明治13年になると新築された別所村の勧業試験場に移され、同年の通常県会からしばらくはここが会議場とされた。しかし明治19年度通常県会で県庁新築費が可決されると、同庁内に県会議事堂が付設されることとなった。新県庁の位置は滋賀郡東浦村(現在地)で、明治19年7月起工、同21年6月に完成し、6月25日に移庁式が盛大に行なわれているが、県会はそれ以前の3月、明治20年度臨時県会からこの新議事堂を使用している。

  なお、県庁新築費は総額8万7879円であるが、そのうち2万5412円は大津町民を中心とした寄付金でまかなわれており、新築完成には、町をあげての祝賀行事が行なわれた。このとき新県庁を見学した者は14,5万人以上を数えたという(明治21年6月28日付『日出新聞』)。



デフレ政策と滋賀県会

 明治12年(1879)の県会開設当初は、籠手田県令は開明的官僚として県会を指導しようとし、県会もこの県令の姿勢をうけいれていたようにみえる。

  たとえば籠手田は、まず県議たちに議事運営を実習させることから始めた。開会前の4月16日には、議員たちに県庁の全庁会議を傍聴させ、翌17日にはみずから議長となり、町村会規則を議題として討議の実際を習わせている。そして4月20日の開場式では「上ハ聖意ノ在ル所二答へ、下ハ安定(籠手田)ノ望ム所二適ハンコトヲ欲ス」などと高飛車な演説を行なっているが、これに対する県会議長武笠資節(犬上郡選出) の答文も「某輩愚昧七十三万ノ公衆二代ッテ地方税ノ事ヲ議セントス、実二戦競ノ至二堪ヘズ」といったきわめて低姿勢のものであった(『滋賀県議会史第1巻所収資料』)。明治12年・13年の県会は、こうした官尊民卑的雰囲気のもとに、平穏に進められていった。しかし明治14年に入ると県会の空気は一変し、県会は批判的姿勢を強めてくることになる。それは一面からみれば、後述するような自由民権運動の盛り上がりと、批判的政治意識の全国的波及とを背景とするものであったが、より直接的には、政府のデフレ政策が地方に深刻な影響を及ぼし始めたことを反映していた。

  明治政府はこれまで、新国家建設のために、莫大な費用を必要としてきたが、地租以外には安定した財源を持たず、増大する支出に対応するためには、不換紙幣の増発と借入金に頼るほかはないありさまであった。したがって、明治政府の財政はもともとインフレ的傾向を持つものといえたが、この傾向は西南戦争によって一挙に顕在化してきたのである。す なわち紙幣増発と借入金による戦費の調達によって、たちまちのうちに物価は騰貴し、輸入超過が増大して正貨が流出し、それがまた紙幣価値を下落させて物価を騰貴させるというインフレ状況が進行しはじめたのである。

  政府は当初、産業の振興による輸出入不均衡の是正という構想でこの事態に対処しようとしたが効果な く、結局明治13年から紙幣整理政策に踏み切らざるをえなくなった。そしてそのためには財政支出を切りつめて収入の増大をはかり、それによって得た資金で紙幣を消却しなければならず、インフレ政策からデフレ政策への大転換が必要であった。この紙幣整理は明治14年10月大蔵卿に就任した松方正義の名をとって「松方デフレ」と通称されているが、デフレ政策への転換はすでに前年から始められていたのであった。

  まず明治13年9月には、酒税を2倍に引き上げ、さらに11月になると、官営工場を民間に払い下げる方針が決定されるとともに、次のような、国の費用を地方に肩代わりさせるという政策も法令化された。す なわち、まず翌明治14年度から、府県庁舎建築修繕費・府県監獄費・府県監獄建築修繕費の3費目を、新たに地方税によって支弁すべき費目に加え、そしてこの負担の増大を支えるために、地方税を増税させた。当時地方税は、地租の5分の1以内の付加税(地租割とも呼ぱれ、国税としての地租に対して一定の率で付加した地方税)、営業税並びに雑種税、戸数割という3種の税目により徴収することになっていたが、政府にこのとき同時に、地租付加税の制限を地租の5分の1以内から3分の1以内へと緩和する措置をとったのであった。
  つまり、紙幣整理のために、国の支出を府県に押しつけ、その財源は府県の責任で増税せよというわけで あり、全国の府県会が騒然となったのも当然であった。滋賀県でも、明治14年度通常県会は大荒れに荒れている。

  論議の中心は、新たに地方税の負担とされた監獄費をどう扱うかという問題であったが、ここでは、この費用は元来国の支弁すべきものだとする意見が議場を圧し、理不尽な国の施策に対する抗議が次々に述べられている。そして7月1日には、28対7の圧倒的多数で、監獄費を地方税支出予算から削除する案が可決されたのであった(『滋賀県議会史』第1巻)。

表12 滋賀県予算の変遷

明治

13年

14年

15年

16年

17年

18年

19年

地方税支出

総額

276,286

379,342

435,297

402,373

360,807

377,884

401,951


県監獄費
同上建築修繕費

-
-

35,693
10,600

46,234
66,762

44,258
22,198

47,015
20,817

43,827
4,351

63,664
1,105

地方税収入

総額

290,164

424,285

473,930

417,295

370,991

380,007

426,548


地租割
戸数割
営業税

141,321
39,766
29,752

191,896
69,703
35,551

202,572
85,642
61,193

197,107
84,515
48,002

153,132
82,083
34,485

188,983
98,292
20,447

216,411
88,593
22,323

国税滞納人員

4,191

17,689

22,254

59

232

同上金額

14,125

71,736

40,044

44

4,101

県議選挙権者

50,278

51,387

49,792

46,782

46,765

38,767

同上被選挙権者

30,257

28,731

29,360

27,222

28,029

26,674

(注) 1.明治16〜19年『滋賀県統計書』により作成。
2.地方税支出・収入は決算額。
3.数字の単位は円または人。
4.?は統計不在。
5.明治16・17年の国税滞納者の異常な激増は、松方デフレとともに水旱害の影響も考えなければならない。

 
  しかし当時の県会の局限された権限では、この議決を押し通すことはできなかった。7月6日県令が、監獄費削除は認めがたいとして再議を要求してくると、県会の態度は腰くだけとなり、17対12 と一転して原案が可決された。この監獄関係費が県財政を膨張させる主要な要因となったことは、表12よりうかがうことができる。なお、監獄に関する具体的問題としては、明治10年に新築落成した大津御蔵町の監獄(500名収容)が手狭なので、旧膳所城内に800名を収容できる監獄をつくり、さらに彦根監獄をも拡張するといった案が出されていた。こ の大津監獄は、明治18年6月、完成なった膳所監獄(本丸町)へと移され『滋賀県沿革誌』、大正11年(1922)10月には滋賀刑務所と改称、昭和41年に移転するまで同地にあった。

 ところで、国が押しつけてくる経費の増加は、結局、戸数割にしわよせされていった(表12参照)。たと えば、この明治14年度通常県会でも、県令提出の原案に対して、地租割を地租10円につき1円66銭7厘から1円53銭8厘5毛に減じ、逆に戸数割については、1戸あたり38銭から48銭6厘5毛4糸に増すという修正案が可決されているのであり、地租5円以上納入者を有権者とする地主議会の性格が如実に現われていたといえる。
  しかし、明治15年春からは物価下落が始まり、松方デフレの効果が現われたが、県会の主要な努力は、なお、地方税支出の削減に向けられざるをえなかった。明治15年度滋賀県通常県会では、論議の主眼は土木費・病院費・教育費・勧業費などをとりあげ、その削減をはかろうとする点におかれていた。だが、個々の県会で解決できる範囲が限られているとすれば、他府県の県議との協議・提携の動きが生まれてくるのは必然であったし、それはさらに県議たちの眼を自由民権運動の方向により強くひきつけることにもなった。

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