『新修 大津市史』5 近代

1982年7月

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第2章 大津事件


「県会と国会」




 

古屋哲夫

初期の県会
自由民権運動
最初の衆議院議員選挙

自由民権運動
滋賀県の自由民権運動
演説会の盛況
自由党結成と大津
県会議員の動向


2自由民権運動



滋賀県の自由民権運動


  自由民権運動の最初の起点は、明治7年(1874)1月17日、左院(明治初年の政府の立法機関)に提出された「民撰議院設立建白書」にもとめることができる。しかし、この中心となったのは、征韓論(朝鮮征服の是非をめぐる論争)に敗れて下野した板垣退助・江藤新平らの参議であり、彼らをかつぐいわゆる征韓派士族は、民権拡張よりも直接的な士族反乱に加担しようとする傾向が強かった。

  したがって自由民権運動の本格的な出発は、西南戦争の翌明治11年9月、板垣退助を頭首とする土佐 (高知県)の立志社が、明治8年に全国同志の結集を目的にして設立されていた愛国社の名義を利用して、同年9月、大阪で開催した愛国社再興大会に求めるべきであろう。以後党勢は順次拡大され、明治13年3月の大会では、国会開設の請願を行なうために、各地・各組織より請願書案を持ち寄るという具体的方針が決定された。これを契機に組織活動は活発となり、やがて自由民権運動も滋賀県に波及してくることになる。  

  この明治13年3月の愛国社大会には、2府22県8万7千余人の代表114名が集まったとされているが、『自由党史』はこの出席者のなかに「滋賀の伏木孝内・高塚雄磨」の名を記しており、今までのところこれが、自由民権運動に滋賀県人の名が出てくる最初の例のようだ。しかしこのうち高塚は、明治14年に滋賀県から分離される若狭遠敷郡二ヵ村の総代であるから、現在の滋賀県の範囲でいえば、「浅井郡上野村 (東浅井郡浅井町)10名総代、同村14番邸平民、伏木孝内」のみであった。「愛国社決議録」によると、3月24日夜の会議で、新加入者をめぐる討議が行なわれており、伏木については「亦日、伏木孝内ハ如何。 茲ニ於テ書記同人ヨリ差シ出ス所ノ主意書ヲ朗読ス。其ノ論旨最モ尚武(武を尊ぶこと)ヲ主トシ、且ツ結合ヲ要シ、頗ル奇トスル所アルヲ以テ衆員之ヲ許スヲ賛成スルモノ多シ。依テ同盟ヲ許スニ決ス」と記録されている『日本政党政社発達史』。

  ここにいう「尚武ヲ主」とする主意書の内容は明らかではないが、明治13年7月20日付『滋賀日報』をみると「伏本(木)孝内氏は、去る17日高田義甫氏と共に県令籠手田君の宅を訪ひ、談次たまたま撃剣の事に及びしかば、イザ一本参るべしとて直に養勇館へ趣(赴)かれ、お面お小手の試合がありし由」と報じられており、伏木は「平民」といっても士族的精神を尊んでいたのではないかと思われる。  

  ところで、明治13年3月の愛国社大会は、愛国社の組織をもって国会期成同盟を結成し、国会開設の請願運動を起こすことを決定した。そしてこの方針の実践によって、全国各地から続々と国会開設請願書が元老院(明治政府の立法諮問機関)にもたらされ、自由民権運動は画期的な発展を示すこととなった。滋賀県関係者からも、明治13年中に、東京寄留の滋賀県士族河上左右(5月13日付)、栗太郡片岡村(草津市)の平民片岡伍三郎ほか12名(8月22日付)、甲賀郡石部村(石部町)の三大寺専治(9月30日付)から3編の国会開設請願書が元老院に提出されている『滋賀県市町村沿革史第六巻所収史料』「国会開設元老院建白」。また明治13年8月28日付『滋賀日報』には、 「政府ハ何ヲ苦シンデ国会ヲ設立セザル乎、在大津 松柏堂主人」という論説が寄せられている。これは、前述した国会期成同盟の活動をとりあげ、政府は「与論ノ赴ク所ロ人心ノ馳スル所」に従って国会を開設すべきだと論じたものであり、自由民権運動に関する新聞報道が、ようやく滋賀県民の間にも浸透してきたことを示すものともいえた。



演説会の盛況

 民権運動は具体的には、新聞・雑誌による言論活動・請願運動・演説会活動などを組み合わす形で展開されたが、政治意識を一般民衆にまでおしひろめていくうえでは、演説会が大きな役割を果たしていた。

 滋賀県においても、自由民権運動が波及してきた明治13年(1880)には、演説会数が前年の5回から117回へ驚くべき急増ぶりを示した(表13参照)。もっともこのなかには、政府が集会条例によって取り締まり体制を強化したため、これまで警察に把握されなかった集会も政談演説会に数えられるようになったという事情があるかもしれない。しかし逆にいえば、取り締まり強化にもかかわらず、これだけの演脱会が開かれたということは、民権運動の熱っぽい雰囲気を除外しては理解することができない。そしてこうした雰囲気を盛り上げる大きな力となったのは、すで に民権指導者として著名であった植木枝盛の来演であったと思われる。  

表13 県下演説会の変遷
明 治・年
12
13
14
15
16
17
18
19
20
21
22
23※
演説
度 数
5
117
76
21
24
18
5
15
20
22
27
30
人 員
19
139
80
55
79
45
16
53
57
36
89
85
演台
認 可
27
504
325
114
96
103
32
66
90
49
132
132
不認可
0
21
14
4
29
13
0
16
15
2
2
1
(注) 1.明治16〜23年『滋賀県統計書』により作成。
2.※明治23年は1月より7月まで。


  植木の『演説日記』によると、彼は明治13年の6月には大阪、7・8月は滋賀県で活動し、9月にはまた大阪にもどっている。滋賀県下での演説会を列挙すると、7月22・23日に片岡村(草津市)、8月16日から18日に「彦根瓦町聖典寺席」、同月27・28日には片岡村西念寺(草津市)と、合計7回となっている『植木枝盛日記・続』。このうち8月27・28日のものは、先にもみたように国会開設建白書のなかに名を連ねている片岡伍三郎の招きによるものではなかったかと思われる。『立憲政友会滋賀県支郎党誌』には、8月13日付で片岡が草津警察署に提出した植木の演説会届が収録されているが、片岡らの建白書がこうした植木の活動を契機として作成されたことは疑いないであろう。

  当時の演脱会の状況を知るためには新聞記事による以外にないが、当時の新聞の保存状態はきわめて悪く、統計上では最多を数えている明治13年の政談演説会も、植木のもののほかは蒲生郡八幡町元玉屋町(近江八幡市)で、藤公治・青山薫の両名を招いた演説会が聞かれたことが確認されるのみで(明治13年8月24日付『滋賀県日報』)、大津でどのような活動がみられたか明らかでない。しかしこの藤・青山の活動は、国会期成同盟の方針にそって、11月の大集会に向けられたものであったとみられる。

  同大会には、2府22県、13万余人を代表する64名が集まったが『自由党史』、そのなかには、滋賀県関係者として、先の伏木孝内に加えて、藤・青山の名がみられる。藤は伊香郡東柳野村(高月町)の平民と記されており、伏木と連名で、蒲生・犬上・坂田・浅井・伊香各郡にわたる有志160名の総代となっているが、青山の方は大阪の住人であるにもかかわらず、大阪・三重の150人に加えて滋賀県甲賀郡水口村30名の総代をも兼ねており、その広い遊説活動をうかがわせている。

  しかし現在残されている新聞でみる限りでは、滋賀県での演説会活動が本格化するのは、明治14年、とくに開拓使官有物払い下げが問題化する8・9月以降とみられる。この事件は、10年間で約1400万円を投資したとされる開拓使(北海道開発を担当した官庁)の工場・諸施設を、薩摩閥と深い関係にある関西貿易商会に、わずか39万円余、しかも無利息30年賦で払い下げるというもので、それが判明すると、民間世論は激昂し、民権派は激しい政府攻撃に転じたのであった。

  板垣退助も郷里の高知から大阪を経て東上を急ぎ、板垣を大阪に送った古沢滋は、城山静一・小島忠里・田口謙吉・善積順蔵らとチームを組んで遊説を行なったとみられ、9月24日には京都四条南の劇場、 次いで翌25日には大津丸屋町の演劇場松の家の演説会にのぞんでいる(明治14年9月22日・27日付『京都新報』)。

  この大津の演説会は「京阪津自由党政談大演説会」と名乗り、開拓使処分の不当を論じて「滋賀県はじまってから此方に無い盛況」で、5,600人が集まったと報じられたが、前日の広告からみると、大津側からは酒井有・山口重禄らが出演しているのが注目される(明治14年9月25日・26日付『江越日報』。酒井・山口・中山勘三 (後出)らは大津の代言人(弁護士の前身)であり、滋賀共立義会を 組織していたと思われるが、同会は滋賀新聞会社と共催で、前記演説会と同時に「近江自由大懇親会」を企面している(明治14年9月25日付『同前』)。そしてこのこのことは、新聞記者と代言人という新しい都市的職業人が滋賀県においても民権運動の一翼をになうようになり、それとともに、大津の政治的地位も上昇してきたことを示すものであった。

  この大懇親会は、古沢らの著名人を大阪から招くことによって、地元の県会議員らを動かそうと意図したものとみられるが、10月16日、大津升屋町竹亭で聞かれた同会では、まず共立義会の酒井有が開会の挨拶を述べ、滋賀新聞会社社主の山岡景命、大阪から来演した古沢滋・小島忠里らが演説、最後に滋賀県会議長川島宇一郎が立ち「近江人民は無気力なるを以て随て団結力に乏しく」と述べて地元民の奮起をうながしたという(明治14年10月19日付『江越日報』)。このときすでに国会開設の詔勅(天皇のみことのり)発布のニュースが伝えられており、参会者の意気もあがっていたことであろう。



自由党結成と大津

  明治政府は開拓使官有物払い下げをめぐって大きく動揺したが、伊藤博文ら薩長派参議は、払い下げの中止、民権派と通じる参議大隈重信の罷免、明治23年(1890)を期して国会を 開く旨の詔勅の発布という三つの措置によって、事態を切り抜けることとした。明治14年10月12日に断行されたこれらの措置は、一般に「明治十四年の政変」と呼ばれる。そしてこの時、前年の国会期成同盟での約束にしたがって東京に集まっていた100名近い民権派有志は、自由党結成に踏み切り、10月18日よ り27日の会議で自由党盟約・自由党規則を決定、28・9日には役員を選挙して結党を終えている。

  この自由党に結党時より直接に参加していたのは、先にふれた藤公治であり(明治15年10月5日付『自由新聞』)、これ以外に明治15年7月18日付『自由新聞』が発表した最初の党員名簿のなかには「滋賀県士族、三田村重陽」の名がみえるが、どのような人物であったか確認できない。藤はその後、明治16年11月27日島根県石見地方で活動中病死しているが、「津和野は藤公治氏の尽力にて国会期成同盟会へ加盟せしもの殆んど八百名もありしが」と報じられているところをみると(明治16年12月19日付『自由新聞』)、党本部に属して滋賀県外での活動を主とし ていたようである。

  これに対して、酒井有らは、党員名簿には登場しないが、地元で大津自由党を結成し、自由党勢力の一翼をになうに至っている。したがって、自由党結成の翌月、明治14年11月に、大阪で自由党の別働隊として立憲政党が結成されると、これと密接な関係を持っていたと考えられるが、こちらの名簿のうえには「滋賀郡鳥居川村八十四番地平民、大島健夫」の名がみられるだけである『自由党員名簿』。また大島、医者であったという『立憲政友会滋賀県支部党誌』。

表14 滋賀県の民権運動と演説会(明治15〜16年)
年 月 日
事                               項
場 所
出 典
明治15.1.26
〜27
政談演説会。主催藤野原平(県議)。弁士瀬川政治・田口謙(立憲政党員)ほか3氏。 愛知県駅
柏屋
立憲(2.1)
1.− 膳所の高田義甫、滋賀・栗太・野洲・甲賀各郡の有志と自由主義政党結成に尽力中。   立憲(2.3)
2.10 大津自由党第一次会、党規約を決定。仮会長山岡景命(滋賀新聞会社社長)、常務委員宇野保太郎・富田毎千代・酒井有。   立憲(2.8,2.16)
4.8 彦根自由党、板垣退助を招いて自由懇親会を予定(4.6板垣遭難のため中止)。 彦根楽々園 越江(4.7,4.9)
4.17 彦根自由党懇親会。植木枝盛・竹内網・小室信夫ら演説、酒井有参加。 彦根楽々園 江越(4.19)
立憲(4.20)
6.11 政談演説会、主催京都新報社。弁士は、同紙社員の山科主幹・大垣次太郎・富田毎千代。 大津丸屋町松の家 京都(6.14)
6.12
〜13
京都新報社員大垣次太郎遊説。伏木孝内の出迎えをうけ、演説会にのぞむ。 長浜 京都(6.21〜24)
6.17 政談演説会。弁士富田毎千代・三浦駒太郎・中山勘三・酒井有・山口重録・高田義甫。 大津丸屋町松の家 江越(6.17)
10.21 淡海演説会。弁士阿部直秀・中山勘三・高田義甫・酒井有ほか2氏。臨監警部に中止を命じられる(大津で最初の演説中止事件)。 大津丸屋町劇場 京滋(10.21,10.24)
12.9
〜10
政談演説会。弁士草間時福・城山静一・酒井有ほか数名。 土山駅演劇
京滋(12.6)
12.− 大津の有志者酒井有ほか2,3名、自由主義の新聞発行に奔走中。   自由(12.29)
明治16.1.11 伏木孝内、東浅井郡伊部村成就院に寄宿、仏具などを無断質入れして告訴、拘引される。   京滋(1.20)
2.11 政談演説会。弁士川上音次郎、臨監の大津警察署長が中止を命じ、拘引。翌日川上は、県庁より、一年間県下での政談演説を禁じられる。 大津四宮劇場 京滋(2.4,2.6)
8.20 欧州より帰朝の板垣退助を招き、関西自由懇親会。滋賀より大島健夫・酒井有が出席。 大阪中の島自由亭 自由党史
10.12 女子学術演説会。弁士岸田俊子、拘引。 大津四宮劇場 自由(10.19)
12.2 淡海演説会。幹事中山勘三、弁士河津祐之・鹿島秀麿・久松義典。弁士中止を命じられる。 大津四宮劇場 京滋(12.4)
(注) 出典のうち、立憲は『日本立憲政党新聞』、江越は『江越日報』、京都は『京都新報』、京滋は『京都滋賀新聞』、自由は『自由新聞』を、( )は月日を示す。


 翌明治15年4月には、大隈重信を党首とする立憲改進党が結成されているが、この方は当初は滋賀県にほとんど影響力をもたなかった。明治17年当時の滋賀県の党員は伊岡寛一・内田清四郎・今川正克の3名とされているが、明治15年9月9日付『自由新聞』には彦根の有志「浅見竹太郎・伊関寛一・本間重慶・ 内田清四郎」らが、政談演脱会の不認可をめぐって警察と争っている旨の記事があり、この「伊岡」と「伊関」は同一人物(どちらかが誤記)であるかもしれない。

  ともあれ、自由党結成以後の段階では、大津にも演説会活動を中心として中央の政党運動に呼応する動きがみられるようになるのであった。ここでは、とりあえず明治15・16年の動きを追ってみることにしよ う(表14参照)。

  表14をみると、せっかく「大津自由党」規約・綱領がつくられても、「大津自由党」としての活動は何も見出すことができない。むしろ「淡海演説会」が「大津自由党」の実体であったのかもしれないとも考えられる。同党の仮会長山岡景命は、『江越日報』を発行する滋賀新聞会社の社主であり、また同党の本部は仮に同社内におくと規定されていることからも、この党が演説会組織であったことがうかがわれる。そして同党の綱領は「広ク同志ヲ団結シ、過激ニ失セズ卑屈ニ流レズ、純良タル自由主義ヲ採」ると述べて自由党穏健派の立場に立ち(明治15年2月16日付『立憲政党新聞』)、一貫して板垣の系列のなかにあった酒井の活動を反映している。

  ところで、政党が容易に発達しなかったのは、きびしい弾圧体制のためであった。明治13年4月に公布された集会条例は、屋外政治集会を禁止、政治集会・政治結社を認可制のもとにおくと同時に、政治結社相互の「連結」・「通信往復」を禁じていたが、さらに明治15年6月3日には、同条例の改正・追加を行ない、政治結社の支社の設置をも禁じた。すなわち、大津自由党についていえば、同党が独立した党として中央の自由党と「連結」することはもちろん、中央の自由党の支部と称することも禁じられたわけである。酒井らがせっかく結成した「大津自由党」の名称を用いなかったのは、こうした弾圧の強化をも考慮してのことだったにちがいない。そしてこのような状況のもとでは、すでに公認された政治制度である県議会のなかで一定の地位を獲得している県会議員たちの行動が注目されるようになるのも当然であった。



県会議員の動向

  デフレ政策への転換による国家財政の負担をしわよせされて、府県会が大きな困難に直面したことはすでに述べたが、関西の府県会議員たちの場合は、状況を打開するために自由民権運動に参加するよりも、他の府県会議員と連絡し府県議の共同行動をとろうとする方向に動き始めた。つまり、自由民権運動には一定の関心を示しながら、しかしそれとは別個に府県議独自の組織をつくろうとしたのであった。  
  すでに明治14年(1881)2月1日・2日の両日にわたって、西川甫大阪府会議長・松野新九郎京都府会議長が会主となり、和歌山・滋賀・堺・三重・兵庫などから議長・副議長を中心とした県会議員たちが大阪府会議室に集まり、協議を行なっている。そしてこの会で、こうした集まりを「府県議員懇親会」と名づ けて定期的に会合し、永続させていく方針が決定された。滋賀からは県会副議長川島宇一郎(5月の議会から議長に就任)が出席した(明治14年2月5日付『滋賀日報』)。この川島が同年10月16日の滋賀新聞会社・滋賀共立義会共催の「近 江自由大懇親会」に出席していることはすでに述べたが、さらにその1ヵ月後の11月15日になると、先の2月の会合で予定されていた関西府県会議員懇親会か京都で開かれている(明治14年11月17日付『京都新報』)。

  この会合に集まった議員たちの地域は、先の会議よりもはるかに広がって、新たに岐阜・長野・石川・愛媛・福岡・鹿児島に及び、合計73名が参集した。滋賀県からの出席者としては、大橋利左衛門(犬上郡選出)・河村専治(滋賀郡選出)・岡田逸次郎(野洲郡選出)・林田騰九郎(甲賀郡選出)・上田喜陸(坂田郡選出)・山岡桃庵(伊香郡選出)の6名の名が記録されている(明治14年11月17日付『京都新報』)。この会でも毎年11月に会合するという永続化の方針が承認されており(明治14年11月18日付『京都新報』)、各地の府県会議員の連合を拡大することによって、府県会のカを強めていこうとする気運が高まってきた。この会合では、次回に憲法見込み案を持ち寄ることが申し合わされたとも伝えられ(明治15年11月7日付『京都滋賀新報』)、この動きが自由民権運動に接近する方向をもっていたことが知られる。

  次いで、同じく明治14年の12月4日、彦根の楽々園において第2回めの近江自由懇親会が開かれたようであるが、幹事として伊関寛二・武節貫治・弘世助三郎・河村専治・大橋利左衛門・林田騰九郎・上田喜陸・岡田逸次郎・馬場新三(犬上郡選出)・川島宇一郎(高島郡選出)・野口忠蔵(蒲生郡選出)・山岡桃庵という人人が名前を連ねていた(明治14年11月25日付『江越日報』)。  

  このうち最初の3名は彦根の関係者と思われるが、他の9名は県議であり、しかもそのなかには、先の関西府県会議員懇親会への出席者全員を含んでいる。また9議員のうち、野口・川島・馬場は第二・第三・第四代の議長、山岡は川島議長時代の副議長、河村・林田・上田・岡田なども常置委員や幹事などを経験しており、滋賀県会における有力議員が集まっていたといえる。この第2回近江自由懇親会の内容については、ちょうどこの時期の新聞が保存されていないので詳細には明らかにしえないが、滋賀郡選出の県議大伴又兵衛らは、この懇親会を継いで滋賀共存会を 組織したらしい(明治15年7月13日付『京都滋賀新報』)。

  この滋賀共存会は、少なくとも有力県議たちが、その政治活動を県会以外にも広げていこうとしていたことを示すものといえよう。したがって彼らは、11月に予定さ れている第2回関西府県会議員懇親会への 参加にも積極的であった。 

  同会は、明治15年11月12日、神戸諏訪山の常盤楼で開かれ、滋賀県からは、川島宇一郎、林田騰九郎、久郷軍内・中小路与平治(以上蒲生郡選出)、近藤幸平(滋賀郡選出)、松本彦平(高島郡選出)の6議員が参加 した。この会議では、府県会規則・地方税規則などに関して各府県から提出された議案を中心に論議がかわされたが(明治15年11月18日付『自由新聞』)、滋賀県議らは、憲法問題の討議を避け論議を府県会議員の職務上の問題に限ろうとするこうした議事運営を不満とし、抗議の意見書を出席者に配布したという(明治15年11月17日付『京都滋賀新聞』)。こうした府県会議員の連合によって、その権限を拡張していこうとする動きは、とくに改進党系勢力の注目するところとなり、東京府会の鳩山和夫・松村宏祚・田口卯吉らは、明治15年11月16日付で、翌年2月1日を もって、東京に全国府県会議員大懇親会を開催することを各府県会常置委員に対し提議した。滋賀県側はこれに対しても敏速に反応し、11月27日の議員懇親会では総代2名を東京へ派遣し、その費用として議員1人あたり2円を醵出することも了承された。そして、投票によって川島宇一郎・馬場所三が総代に選ばれたが、馬場がその席に不在であったため、馬場が断わった場合には次点の林田騰九郎とすることとした(明治15年11月23日・30日・12月12日付『京都滋賀新報』)。

  しかしこの急速に発展するかにみえた府県会議員の連合運動も、まさに全国化を目前にして、政府の弾圧に直面することになった。明治15年12月28日、政府は府県会議員が、府県会の会議事項に関して他の府県会議員と連合集会し、往復通信することを禁止する措置をとった『太政官布告』第70号。主催者側もやむをえず、明治16年1月1日、府県会の会議事項に関しない地方の事情につき討議することに開会の目的を縮少するとの通知を発した(明治16年1月7日付『自由新報』)。これに対して滋賀県の有志議員20名余は1月18日大津に集まり協議したが、このような布告が出た以上、集会を行なっても何の効果も期待できないとする意見と、このような制限の下でもなお、懇談は有益であるとする意見とが対立したという。そして先に派遣委員に選出されていた川島宇一郎が集会反対論を唱えたため、同月19日賛成派のみが集まって協議し、林田騰九郎他1名を派遣することとした。しかしこれに対しても県令から、常置委員である林田の出席は好ましくないと差し止めら れ、結局守山村(守山市)の宇野佐寿郎(野洲郡選出)が代わることになっている(明治16年1月23日・2月6日付『京都滋賀新報』)。

  全国府県会議員懇親会として予定された会合は、明治16年2月2日になって、名称を日本同志者懇親会と変更、出席者も府県会議員に限定しない建前として東京の中村楼で開会された。滋賀県からは前記宇野とともに川並村(神崎郡五個荘町)の塚本粂右衛門(神崎郡選出)が出席した。しかし、府県会議員連合運動の実質は変わらないとみた政府側は、翌2月3日集会禁止を命じ、会は中途にして解散のやむなきに至っている。

  政府は、先の連合運動禁止の70号布告と同時に府県会規則を改正し、府県会の通常会の会期延長を認めず、臨時会は会期7日とする、府県長官は内務卿の許可により、会期内未了の議案を執行できるなどの条項を追加し、府県会の活動への制限を強めていた。そして明治16年通常会を前にした2月には、政府にさらに府県会の建議が中央の政治には及ばないことを府知事・県令を通じて議員に通運したのであった。いわば国政への批判・要求の唯一の手段として利用されてきた府県会の建議権も、その牙を抜かれてしまったのであった。

  松方デフレ政策の浸透によって深刻化してきた不況の下では、この弾圧をはね返す政治運動を組織することはできなかった。弾圧は民間運動全般に対して強化されており、自由民権運動も急速に後退していくこと となる。

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