『新修 大津市史』5 近代

1982年7月

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第2章 大津事件


「県会と国会」




 

古屋哲夫

初期の県会
自由民権運動
最初の衆議院議員選挙

最初の衆議院議員選挙
倶楽部組織の続出
候補者予選と総選挙


最初の衆議院議員選挙



倶楽部組織の続出

 明治17年(1884)の自由党解党は、自由民権運動崩壊の画期をなすものであり、以後民間の政治運動は全く沈滞してしまったが明治20年になると、条約改正問題を機として、よう やくこの沈滞を破り勢いをもり返してきた。というのも、条約改正をめぐって政府内部が分裂し、国家主義者たちも政治運動に乗り出してきたからであった。  

  条約改正は、外国領事による領事裁判権の撤廃と、関税自主権の回復を二大眼目とするものであり、伊藤博文内閣が憲法実施までに解決しようとした最大の課題であった。井上馨外相は、明治19年5月から各国との交渉に入り、20年4月には、裁判管轄条約案について協定の見通しを得るまでになっていたが、そのなかに、領事裁判権撤廃までの過渡的措置として、外国人にかかわる裁判のために、地方裁判所から控訴院 (現在の高等裁判所)・大審院(現在の最高裁判所)に至るまで外国人判事を任用するとの条項が含まれていたことが大きな問題となった。同年6月には、内閣法律顧問ポアソナード、次いで農商務大臣谷干城から反対意見が提出され、谷は7月20日には改正案反対の上奏(天皇への意見上申)を行なって辞職してしまった。

  井上外相の条約改正事業は、こうした内部からの反対によって中止されたが、谷の辞職により条約改正を めぐる問題点があらわになったことは、民間の政治運動をいっせいに燃えあがらせることになった。そしてこうした動きに、地租軽減・言論集会の自由といった目標を結び合わせ、自由民権派の勢力の動員をはかったのは星亨らであったといわれる。さらに10月3日後藤象二郎が諸勢力の連絡を目的として丁亥倶楽部を組織すると、運動は「外交の刷新」「地租軽減」「言論集会の自由」を要求する三大事件建白運動の形に統一さ れた。11月になると建白書をたずさえた代表は続々と上京し、政治的危機を感じた伊藤内閣は、12月26日ついに保安条例を発し、彼らを皇居から3里(約12キロメートル)以内より追放する非常措置を余儀なくされたのであった。滋賀県からもこの建白運動に渡部清太・金子利助の2名が参加したとされるが『自由党史』、県内では新たな政治運動はみられなかった。

  滋賀県下では明治21年に入っても、同年4月に公布された市制・町村制によって、大津に市制施行を求めるかどうかといった問題の方が関心を呼んでおり(第2章第3節参照)、全国的運動に対応する動きが出てきたのは、10月14日大阪で聞かれた全国有志懇親会の頃からであったと思われる。  

  この会合に滋賀県から出席しているのは、片岡米太郎・野崎源左衛門・中山勘三・富田毎千代・河村吉三 ・安藤貞の6名で『自由党史』、その多くはすでに県議であったり、またこれまでの運動のなかに名前を見出しうる人物であった。それは「国会開設切迫」という呼びかけに応じて滋賀県の地方政治家も動きはじめたことを意味した。  

  この動きは翌明治22年、とくに2月11日、大日本帝国憲法とともに衆議院議員選挙法が公布されて以後顕著となり、県下各地に、有力者の意見交換の場をつくることを目的とする倶楽部組織が続出してくることになった。その場合自由民権運動のときとちがって、最初から県会議員層か主導権をとっていることが特徴的であった。たとえば同じ代言人といっても、谷沢龍蔵のように、大津町会で活躍し県会議員の地位にも就くという人物でないと主導権を握りえなくなっていた。

  明治22年には、滋賀県下でも多くの結社・倶楽部ができているが(表15参照)、これらの諸団体は、いずれも翌年の衆議院選挙に眼を向けており、したがって中央の政治状勢にもしだいに関心を示すようになっていった。前年から全国を揺るがせた大同団結運動(民権諸派の反政府統一運動)は、明治22年3月22日、運動の提唱者である後藤象二郎の入閣によって崩壊し、組織的にも大同協和会と大同倶楽部とに分裂するというありさまとなった。しかしこの頃からふたたび条約改正問題が起こったため、両派の共闘関係はしばらく維持されている。  

  条約改正問題は、大隅重信外相に引き継かれ、秘密のうちに進められていたが、明治22年4月19日のロンドンタイムスにその内容が暴露されると、この段階では大審院に限られたとはいえ、外国人判事の任用という問題が残されており、この点をめぐってふたたび反対運動が高まることになった。同年8月には大同倶楽部・大同協和会などの五団体が連合し、地方からの建白運動もさかんになった。このときは、改進党だけが大隈支持にまわっている。

表15 国会開設前の滋賀県の倶楽部・政治結社

名 称

本部

発起人・幹事

活 動 内 容

近江倶楽部

大津
京町

谷沢龍蔵ら

明治22年1月21日開業式。会員制、知識の交換と懇親が目的。社交クラブに終始する。

近江政友会

大津

中山勘三・谷沢龍蔵・酒井有・山村治三郎ら

明治22年3月9日、大津共楽亭で結成。国会開設準備を目標に掲げた政治結社。演説会の企画、建白書提出など、最も政治的に活動。

近江東北倶楽部

長浜

脇坂行三・日比久太郎・村田豊・伊藤之朗ら

明治22年2月頃、滋賀県第4区(坂田・東浅井・西浅井・伊香の各郡)の有志が結成。4月25日、会則など決議。国会開設準備を目的とする政治結社。大井憲太郎の招待をはかるなど大同協和会に近かったが、その後同区内に湖北倶楽部・一七会が結成されたため、ほとんど活動することなく、翌明治23年2月10日解散(社交クラブは残す)。

進 致 会

 

西尾万九郎・寺沢半三ら

東浅井郡の有志で組織。明治22年5月22日議決の会則に、「政府の干渉を斥け自由権利を拡張する事」をうたう。大同協和会系。

近江同致会

大津

中小路与平治・馬場新三ら

明治22年4月頃結成。県会議員が中心。6月10日、政党内閣の設立、地方自治の確立、平和外交と通商関係の充実などの会則を決議。しかし、近江の貴族会、県下名望家の組織と称する向きもあり、政治路線は不明確。

近江大同会

 

酒井岩造・酒井有・水野正香・野崎源左衛門ら

明治22年7月頃結成か。大津の有志が発起。9月に膳所縁心寺で演説会開催。翌明治23年1月9日解散し、愛国公党への参加を決定。

大津知人会

 

頓田六之助・古望仁兵衛・西村文四郎ら

明治22年7月頃結成か。大津町全体に関する利益をはかることが目的。隔月に懇親会を開催。政治結社化の意見もでたが実現せず。

湖北倶楽部

 

北川弥太郎・下村幹・山岡桃庵ら

明治22年10月頃結成か。伊香郡中心の組織。政治的な意見交換だけでなく、殖産興業的な具体的な問題も討議している。

一 七 会

 

上田喜陸・川瀬平内ら

明治23年1月頃結成か。坂田郡が中心。県会議員・衆議院議員の候補者予選を目的としたようだ。

(注) 『日出新聞』・『中外電報』の記事によって作成。


  滋賀県でも近江政友会がこの条約改正反対運動に呼応し、明治22年8月23日の臨時総会では、建白書の提出と演説会開催の方針を決定(明治22年8月25日付『日出新聞』)、9月23日には大津小川町大黒座で久々の大政談演説会が開かれている(明治22年9月25日付『同前』)。この演説会には大阪の江口省三・善積順蔵なども参加しているが、滋賀県からは、大島健夫・森口与七郎・松貝鉞太郎・水野正香・石母田宗四郎・橋本甚吉郎・谷沢龍蔵・小栗穣らが登壇、また奈良に移っていた酒井有もかけつけている(明治22年9月25日付『中外電報』)。近江政友会のほか、近江東北倶楽部・近江大同会などもこの運動に参加したが、近江同致会の場合には10月6日になってようやく調査委員を任命するありさまで、結局態度を明らかにしないままに終わった。

  すでに10月になると、外国人判事の任用は憲法違反であり、そのために外国人判事を帰化させねばならないなどの意見が出て政府部内も紛糾し、改正中止に煩いていたが、10月18日大隈外相が襲撃され重傷を負うという事件が起こると、翌日政府も正式に条約改正中止と決定した。そして以後、各党派の限は、ふたたび衆議院選挙に向けなおされることになるのであった。



候補者予選と総選挙

 衆議院議員選挙法も憲法と同様、極秘のうちに制定作業が進められており、選挙権は結局、直接国税15円以上を納付する者というきわめて高い水準に設定されることとなった。有権者は人口の1.14パーセント、約45万人にすぎず、そのうえ選挙区が人ロ12万人に付き議員1人という割合を規準にして設定されたため、選挙区ごとの有権者数はきわめてばらつきの大きいものとなった。  

  滋賀県各区の有権者数は、第1区滋賀・高島郡、2065人、第2区甲賀・野洲・栗太郡、4355人、 第3区犬上・愛知・神崎・蒲生郡、5682人、第4区西浅井・東浅井・伊香・坂田郡3354人であり、 定員は第3区のみ2名で、他は1名となっている。投票は定員数だけ被選挙者名を書くという方式で、また投票者が自分の姓名・住所を書き捺印までするという記名投禁制であった。  

  被選挙権についてもその選挙府県内において直接国税15円以上を納める者という制限がつけられたが、選挙権とちがって本籍・居住に関する制限はつけられなかった。ちなみに、選挙権者の条件は、満1年以上その府県内に本籍をもって居住し、引き続き居住する者とされた。また立候補制がとられなかったため、彼選挙権を有する者なら誰に投票してもよかった。したがって、複数の選挙区で当選することもありえたわけである。また選挙運動については、さまざまな形での買収が禁止された程度で、制限はゆるやかであった。  

  こうした選挙制度のもとで、明治23年(1890)に入るといっせいに選挙運動が開始されるが、選挙 区内の有力者たちが、候補者予選会などの名目で会合し協議するというやり方が目立っている。この場合にも、運動の中心は県会議員層であったと思われ、その際、県議自身が衆議院に乗り出そうとする型と、東京や大阪で活躍している有力者をかつぎ出すことで、自己の勢力を強めようとする型とがみられた。また後者の場合、県下のどの選挙区でも当選の可能性か考えられるため、有力者の帰郷に際しては、複数の選挙区の有志に招かれることが多かった。

  たとえば、明治22年10月16日、県議藤野辰次郎らが愛知郡愛知川村(愛知川町)越川館の有志懇親会に、のちに第3区で当選する大東義徹と第4区で当選する相馬永胤を招いているのは、そうし た運動の早い例であるが、両人は翌々18日には馬場新三・谷沢龍蔵・高谷光雄らによる、大津商工会議所での懇親会に、さらに20日には甲賀郡深川村(甲南町)の有志に招かれるといったありさまで あった(明治22年10月19日・20日付『日出新聞』)。

  明治23年をむかえると、滋賀県でも候補者選びが盛んとなるが、ここでは、現在の大津市域に関連する第1区・第2区の状勢をみていくことにしよう。

  第一区の場合には、県内の候補者としては県会議長から栗太・野洲郡長に転じた川島宇一郎が最有力であったが、これに対しては県 外の有力者を支持する動きがしだいに活発となった。そして当初は河津祐之(司法省刑事局長)や相馬永胤(アメリカ留学後、専修学校長・横浜正金銀行重役)をおす動きもあったが、結局元県議河村専治(本堅田村) の杉浦重剛擁立運動が最も強力になっていった。

  杉浦は膳所藩士の家に生まれ、明治3年藩の貢進生として上京。大学南校・開成学校(東京大学の前身)に学び、明治9年から同13年にかけてイギリスに留学、帰朝後、大学予備門長・文部省専門学務局次長などをつとめ、明治22年辞職後は、国家主義の立場から大隅外相の条約改正案反対運動に活躍していた(第2章第5節参照)。

  杉浦擁立運動は、2月の段階で早くも滋賀郡を制し、川島宇一郎の勢力圈とみられた高島郡でも力を伸ば しており、「今高島全郡の選挙人概数2千人の中凡そ3分の2は川島氏を棄てて杉浦氏を挙げんとする景況なり」といった状況であった(明治23年2月26日付『日出新聞』)。高島郡の有権者は2千人もいない、その3分の2を獲得したというのは、あとの結果からみて過大評価であるが、とにかく早くも2月頃には杉浦優勢の状勢となっていたようである。杉浦自身はようやく6月8日になって帰省し、17日までの間に、石山・膳所・大津・堅田・比良・大溝・今津などの7ヵ所で演説しただけである。この選挙に関し、主 として骨を折ったのは、河村専治・安原喜蔵・永元愿蔵の3名であり、馬場新三・弘世助二郎らが選挙費用を負担し、これらの有志者が新たに『近江新報』という新聞までも発刊したという『杉浦重剛先生』 。

  杉浦対川島という形で早くから状勢がはっきりした第1区に対して、第2区の場合には6月になっても状勢は混沌としていた。ここでは県外在住有力者・有力県議のほか、全国政党が力をもっている点が特色であった。県外有力者としては東京在住の城多董(甲賀郡出身)があげられていたが、そのほか、甲賀郡南部では県議林田騰九郎を、朝宮村(甲賀郡信楽町)の一部では酒井有を推す動きがあり、栗太郡の湖東倶楽部は石黒務が承諾しないので山崎友親を立てようとし、野洲郡の愛国派は多少これに同意する向きもあったという(明治23年6月17日付『日出新聞』)。なお、ここでいう愛国派とは、旧自由党勢力のうち板垣退助らが結成した愛国公党を指している。

  滋賀県下の旧自由党系勢力も、こうした動きにともなって再編されていった。板垣退助の旧友懇談会に酒井有・片岡米太郎が出席すると、大同協和会から自由党にいたる会合には東浅井郡の村田豊か参加している(明治22年12月20日・22日付『東雲新聞』) 。村田はその後、自由党幹事となり、また23年2月21日の同党委員会へは村田のほか、伊藤之朗・西尾万九郎・樋口了・辻村省吾らが出席を申し込んで(明治23年1月26日・2月20日付『同前』)、湖北の第4区に自由党の勢力が伸びたことがうかがわれる。これに対して湖南の第2区が愛国公党の拠点となったのであり、同党勢力の一部は衆議院選挙にあたって、明治14年から20年にかけて栗太・野洲郡長の職にあった山崎友親を擁立したのであった。山崎は膳所藩士として幕末政局のなかで尊攘派を支援して活躍しており(第4巻第4章第3節参照)、維新後は大津県・滋賀県に出仕、明治12年郡制施行とともに初代栗太郡長に登用された人物であった。  

  総選挙の近づいた4月3日には、山崎が発起人となって上京途中の板垣を招き、大津商工会議所で懇親会を開いているが、招待者側からは山崎と酒井有、板垣側からは板垣と同行の植本枝盛・栗原亮一らが演説している(明治23年4月5日付『日出新聞』) 。

  他の党派では、大同倶楽部は滋賀県には拠点を持たず、また改進党では、かつての民権運動全盛期に『大阪日報』主筆として近畿地方で活躍した加藤政之肋らが、明治22年10月から11月にかけて、滋賀各地を遊説したが、選挙に影響を与えるほどの勢力をつくり出すことはできなかった。

 明治23年7月1日に行なわれた第一回衆議院議員総選挙は、滋賀県では表16のような結果に終わった。第1区は予想どおり杉浦・川島の決戦であり、第3位以下は2票・1票といった文字どおりの散票であるのに対して、第2区では、第6位の鵜飼退蔵28票、第7位田中知邦12票と続いており、票の割れ方の激しかったことがうかがわれる。また政党関係では、第2区から愛国公党を背景にして山崎友親が当選し、第4区では自由党勢力をバックにした脇坂行三が善戦しているが、脇坂も東浅井郡選出の県議であり、滋賀の場合には民権運動以来の活動歴だけでは、郡長・県議の経歴に及ばなかったことがうかがえる。

表16 滋賀県の第1回総選挙結果

 

氏   名

得 票 数

第1区

杉浦重剛
川島宇一郎

当選 1,084
750

第2区

山崎友親
城多 薫
林田騰九郎
岡田逸次郎
酒井  有

当選 1,350
903
843
685
210

第3区

大東義徹
伊庭貞剛
谷   均
中小路与平治

 当選 4,101
当選 3,084
1,553
711

第4区

相馬永胤
脇坂行三
浅見又蔵

当選 1,755
1,274
32

(注) 『日出新聞』・『中外電報』より作成。


  選挙後の明治23年9月、旧自由党三派(大同倶楽部・愛国公党・大同協和会)と九州連合同志会が合同して立憲自由党が結成されると、山崎も入党しているが(明治23年8月29日付『日出新聞』)、同党常議員には滋賀からは、村田豊と酒井有が選ばれており、同党における代議士と活動家の分離の問題があらわれていた。

  この選挙結果について当時の新聞は、  

 

 

滋賀県下の衆議院議員は総数5名あれど其中杉浦重剛・大東義徹・相馬永胤の3氏は東京住居、伊庭貞剛氏は亦大阪住居にて、土地に在るものは僅に山崎友親氏1人なるに、同氏も自由主義を看板に掲げながら当選以来病気に罹り引罷(寵)り居りて、昨今進歩主義新政党の組織ある肝腎の時に上京も出来ぬ始末なれば、同県下の選挙人等は孰れも何か物足らぬ心地がすると言ひ居るとか申す。


  と報じていた(明治23年8月23日付『日出新聞』)。しかし実際に第一議会から第二議会にかけて、党利党略のかけひきにいや気がさした杉浦に続いて相馬・伊庭が相次いで議員を辞職し、補欠選挙によって川島宇一郎・脇坂行三・中小路与平治と県議層がこれに代わり、県外居住者は逆に大東1人になるという激しい変わりようとなった。