1966年8月

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日露戦争


表紙

古屋 哲夫

はしがき
1ロシアの極東進出と日本
2戦争に踏み込む
3満州が主戦場に
4決戦を求めて
5ポーツマス講和条約
6日露協約―結びにかえて―

4決戦を求めて
列強、講和へ動く
奉天占領
戦力の限界
日本海海戦


4決戦を求めて


日本海海戦



最後の航海に


  まる2ヵ月以上もマダガスカル島北部ノシベ付近に滞在していたバルチック艦隊が、やっと錨をあげて出発したのは3月16日であった。この長期の滞在は、本国政府がさらに増援艦隊を編成して遠征艦隊に加えることを決定したためであった。もっとも この艦隊は初め遠征計画からはずされた老朽艦が中心であり、ロジェストウェソスキー司令長官 は、そんな軍艦をもらってもかえって足手まといだとマダガスカルから反対意見を送ったが、本国のロシア軍令部は既定方針を変えようとしなかった。増援艦隊は2月15日リバウ軍港を出発、 主力艦隊がマダガスカルを出たころは、地中海をスエズ運河に向かって航行していた。

  4月14日、フラソス領イソドシナのカムラソ湾に到着した主力艦隊は、ここで増援艦隊を待ち、5月9日増援艦隊は主力に合した。ついで5月14日、運送船、病院船なども加え、総計50隻の大艦隊はいよいよウラジオストックに向かう最後の航海に出発した。バルチック艦隊がこの大航海中、マダガスカル島といい、イソドシナといい、つねにフラソス領に滞在したのは露仏同盟の関係からいって当然であったが、日本政府は、24時間以上の滞在を許すのは中立違反だと、繰り返しフラソス政府に抗議し、イギリスも日本の抗議を支持した。フランスもあるていどはこれらの抗議をうけいれないわけにもゆかず、マダガスカルでは随一の良港ディエゴ・スワレスの使用を拒否し、またイソドシナの地方官憲にロシア艦隊の退去を要求するよう訓令した。このためバルチック艦隊は、マダガスカルでは小漁港にすぎないノシベにおもむかねばならず、イソドシナでは領海を出たり入ったり動きまわらねばならず、十分な休養をとることができず、士気に影響するところ大きかったと伝えられる。また石炭は、ドイツのハソ ブルグ・アメリカン会社の運送船から海上で補給を受けることになっていたが、これも炭質をめ ぐる紛糾が起こるなど順調にはゆかなかった。

ところで、インドシナを出たバルチック艦隊がどこに行ったかは容易につかめなくなった。日本海軍とすれば、バルチック艦隊がウラジオストックに入る前になんとしても撃破してしまいたかった。いったんウラジオに入ってしまえば、容易に打ち破れなくなるばかりでなく、補給線へ の重大な脅威となることは明らかであった。3隻のウラジオ艦隊でさえ、すでに述べたような大暴れをみせたのだから、世界でも最新鋭の戦艦4隻をはじめとするこの艦隊がウラジオを基地に活動を始めたら、重大な事態になることは眼にみえていた。

  連合艦隊は旅順陥落以後、艦艇をドックに入れて修理し、南朝鮮の鎮海湾を根拠地として射撃の猛訓練にはげんでいた。東郷司令長官はたんなる勝利を問題にせず、撃滅だけを目標にしていたと伝えられる。そのためには、バルチック艦隊のやってくる道筋をとらえ、連合艦隊の全力を ぶつけることが必要なのはいうまでもなかった。



ウラジオヘの三つのコース


  イソドシナを出たバルチック艦隊がウラジオに行くためには、3つの道が可能であった。第一は対馬海峡から日本海を通ってゆく最短のコース、第二は太平洋を迂回して津軽海峡を通るコース、第三は、さらに北に回って宗谷海峡をぬける最も遠いコー スである。このうちどのコースをとるかを判断することが作戦のカギとなってきていた。

  参謀の一部には、艦隊を能登半島に待機させれば、敵がどの方向から来てもすぐさま出撃して攻撃することができるという意見も聞かれた。しかし、1回の攻撃でバルチック艦隊を全滅させることは不可能であり、数回の海戦を行なえるだけの距離で敵艦隊をとらえることが必要であった。東郷司令長官は、できるだけの船を動員して海のパトロールを強化するとともに、連合艦隊主力を鎮海将において勣かなかった。

  ロシア艦隊を発見できないまま1月以上がすぎたが、5月25日、ロシア艦隊の輸送船4隻が上海に入ったという情報が入った。このことはバルチック艦隊が太平洋に大きく迂回せず、中国沿岸から遠くない地点にいることを示すものと推測された。連合艦隊首脳部は敵は対馬海峡を通る最短コースを選んだとの確信を強めた。

  バルチック艦隊の方でも、どのコースをとるかについてはいろいろな意見があった。まず小笠原諸島を占領して連合艦隊を太平洋に誘い出し、機を見てウラジオに向かうという案があったが、これには石炭などの補給がうまくゆくかどうかという不安があった。また艦隊を二分して、最新艦艇を中心に速力のはやい艦艇だけで対馬海峡を突破し、その他のものは北方を迂回するという案も出された。しかしロジェストウェソスキー長官は、2隻の仮装巡洋艦を太平洋側の日本沿岸を北上させただけで、全艦隊をまとめて、対馬海峡を突破する方針を決めた。彼は日本の連合艦隊を正面から打ち破れると考えたのであろう。連合艦隊とバルチック艦隊をくらべてみると、速力では連合艦隊の方がいくぶん上とみられたが、装備された大砲の大きさではバルチック艦隊の方が上だった。またロシア側では、前年8月10日、旅順艦隊が出撃した黄海海戦でも、一発の砲弾が旗艦の司令塔といっしょに司令長官を吹きとばす不運さえなければ、勝負は五分五分だった と考えられていた。          



発見の第一報

 
ロジェストウェソスキーは、対馬海峡で夜間の水雷攻撃をうけるのは不利とみて、5月27日正午に対馬海峡中央を通過する予定を立て、訓練を行なうなどして時間を調節し、26日夜、隊形を整え、明日の海戦を予期しながら対馬海峡に向かった。

 27日午前2時45分、五島列島の西方海上を哨戒中の仮装巡洋艦信濃丸は、闇の中に灯火が動いているのをみつけた。近づいてみると後方に白、紅、白の3灯をつけた汽船であった。約2時間の追跡のすえ、4時半すぎ、バルチック艦隊の病院船であることを確認し、いよいよ停止させて臨検しようとした。しかしこのとき、1500米ほどの距離に敵艦10数隻がおり、そのむこうにも煤煙が数条だなびいているのを確認した。信濃丸はいつの間にかバルチック艦隊の中に入り込んでいたのだった。急いで舵を転じて敵艦隊との距離をとり、「敵艦隊203地点に見ゆ、 敵は東水道に向かうものの如し」と打電した。午前4時45分のことであり、これがバルチック艦隊発見の第一報であった。



日本毎海戦

  夜が明けた6時すぎからは、軍艦和泉が監視と追跡の役目をひきうけ、10時頃からは、片岡七郎中将指揮下の巡拝艦隊が、バルチック艦隊の左舷に4、5海里の距離をとって接触を始めた。すでに6時34分、鎖海湾を出発した連合艦隊主力に刻々敵艦隊の隊形、位置などが報ぜられた。

  旗艦三笠を先頭にした連合艦隊主力がバルチック艦隊を発見したのは午後1時40頃であっ た。55分にはかの有名なZ旗がかかげられた。「皇国の興廃此の一戦にあり、各員一層奮励努力せよ」と。

  両艦隊の距離は急速にちぢまってゆく。2時5分、距離約8000メートルに追ったとき、旗艦三笠は左折して敵の頭を抑える方向に変針し、各艦これに続いた。バルチック艦隊の方では、三列で進んできたこれまでの隊形を組みかえ、戦艦を左側に一列に並べて連合艦隊に対抗しようとしたが、この組みかえにもたつくあいだに、三笠が左折するのをみるや、その転回点をねらっていっせいに砲撃を開始した。しかし日本側はこれに応ぜず、距離6000メートルまで近づいて初めて、 三笠が砲門を開き、後続各艦もこれにならった。いよいよ日本海海戦の火ぶたが切られたわけで ある。ときに2時10分と記録されている。

  海戦は最初の30分で早くも日本側の優勢が明らかとなった。砲撃の正確さと砲弾の破壊力で日本の方がまさっていたため、ロシア艦隊は圧せられてしだいに進路を右側に移し、両艦隊はほとんど並航して砲戦を続けるうち、ロシア側旗艦「スワーロフ」、二番艦「アレクサソドル三世」、 五番艦「オスラービヤ」の三戦艦が火災を起こし、「スワーロフ」、「オスラービヤ」は戦列を離れてしまった。

  日本側では巡洋艦浅間が舵をやられて修理のため一時戦列を脱しただけだった。1時間後にはロシア艦隊は日本艦隊との正面からの対決をやめて、なんとか逃げ出そうとし始めた。このころすでに、「スワーロフ」の司令塔は破壊され、ロジェストウェソスキー司令長官は砲弾の破片を 頭にうけて人事不省におちいっていたし、「オスラービヤ」はまもなく沈没してしまった。「スワーロフ」もロジェストウェソスキーを駆逐艦に移したのち、日本の駆逐艦、水雷艇の波状攻撃を うけて、午後7時すぎ撃沈された。ロジェストウェソスキーはのち、日本の病院で奇跡的に意識を回復することになる。さて司令長官を失ったバルチック艦隊は、北に東に南にと航路を変えながら、午後4時頃、一時日本艦隊の追撃をかわしたが、戦列を整えてふたたび北上したところを、捕捉され、この第二の海戦で戦艦「ボロジノ」「アレクサソドル三世」を撃沈され、さらに夜に入ると駆逐艦隊、水雷艇隊の猛攻をうけねばならなかった。

  翌日、バルチック艦隊はもはや数隻ずつの小艦隊、さらには個々の軍艦に分解してしまっていた。連合艦隊主力は夜中に鬱陵島付近に集結し、夜明けとともにロシア艦隊を探索し、1隻も日本海を通過させない構えをとった。午前9時半、戦艦「ニコライー世」「アリョール」を中心とする5隻の艦隊を発見、約1時間の砲戦ののち、後方にも日本巡洋艦隊かあり脱出不可能とみた司令官ネボガトフ少将は降服を申し出た。

  これでバルチック艦隊の主力はほとんど壊滅してしまった。以後日没まで残存ロシア軍艦の追跡が続けられ、ロジェストウェソスキーをのせた駆逐艦「ベドウィ」が降服するなど、多くの艦が撃沈され、あるいは捕えられて日本海海戦の幕を閉じた。

  結局、対馬海峡に向かったバルチック艦隊38隻のうち、ウラジオストックに入ったのは、 巡洋艦1、駆逐艦2、運送船1にすぎなかった。戦艦6隻をはじめ19隻が撃沈され、戦艦2隻以下5隻が捕えられ、2隻が逃走中に沈没したり坐礁したりしてしまった。のこりのほとんどは 中立港に逃げ込んで武装解除された。日本側では、27日夜の攻撃で水雷艇三隻が撃沈されただけだった。

  この日本海海戦の勝利の原因としては、つねに相手の前進を抑えた速力の優位、砲撃の正確さなどのほかに、下瀬火薬の威力があげられている。下瀬火薬は明治21年、海軍技宮下瀬雅充が発明、同26年正式に海軍に採用され、32年から大量生産に入り、日露戦争で初めて使用されたもので、その爆発力は世界の水準を抜いていた。ロシアの砲弾は軍艦の鉄鋼板をうち技 くことに重点をおいたのに対して、日本の砲弾はできるだけ多くの火薬をつめ込んで爆発力を大きくしていた。黄海海戦についで日本海海戦でも、ロシア側の司令長官が倒されたのは、不運というよりは、この爆発力、したがって殺傷力の大きさに基因していたようである。



講和の絶好機

  ともかく、日本海海戦の勝利は決定的であった。国民はこの大勝利の報に熱狂した。新聞は、ハルビソを、ウラジオをとれ、バイカル湖までも攻め込めと威勢よく書きたてた。戦力がすでに限界に来ていることについて、政府は国民になにも知らせよう としなかった。政府は秘密外交の原則をとっていたということのほかに、講和にあたって、ロシアに弱味をみせまいとすることに懸命であった。国際的にも日本は財政的困難にぶつかっている とみられていたが、ローズベルトに対しても、日本はまだまだ軍事的にも財政的にも余力があるのだから、日本から講和をいい出す筋合いでないという見解を繰り返していた。

  しかし、すでに述べたように実情はそんなものではなかった。日本海海戦の勝利はどうしても講和のために利用しなくてはならない。海戦の勝利がいかに大きくても、戦争の続行という立場からみれば、いままで確保していた補結線の安全を確保し続けただけだった。

  満州の野にはロシア軍の増強が続いていた。奉天会戦後、クロパトキンは第一軍司令官に格下げされ、リネウィッチ大将が総司令官となり、ヨーロッパ・ロシアから精鋭の軍隊を増強することに力をそそいでいた。しかし日本のつぎの目標はこのリネウィッチ軍を進んで撃破することではなく、戦争を終らせることであった。日本海海戦でさらに大きくなってくるであろう列強の講和の動きを、先手をうってとらえることこそが重要であった。海戦の決定的勝利はそのためには絶大の価値をもっていた。  

政府はすぐさま講和への動きを始めた。

5ポーツマス講和条約