1966年8月

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日露戦争


表紙

古屋 哲夫

はしがき
1ロシアの極東進出と日本
2戦争に踏み込む
3満州が主戦場に
4決戦を求めて
5ポーツマス講和条約
6日露協約―結びにかえて―

5ポーツマス講和条約
講和のための諸工作
ポーツマス会議
大陸経営の出発



5ポーツマス講和条約


大陸経営の出発



二つの案件


  10月16日、講和条約の調印を終えた小村全権が横浜に帰ってきた。講和反対派が彼を襲うのではないかという噂が流れ、厳重な警戒網がしかれた。家族の出迎えもできるだけ控えてほしいという取締当局の要望で、横浜に出かけたのは長男だけだった。しかし小村の頭のなかは、出発のときとはうって変わったさびしい光景をなげくよりも、つぎの仕事のことでいっぱいだったにちがいない。彼は帰国の途中の汽車の中でも、船中の人となってからも、韓国保護条約や満州にかんする日清条約の草案、あるいは「満韓経営綱領」と題する意見書などを、秘書官に口述していた。

  10月27日、閣議は小村外相提出の二つの案件を決定した。一つは、すでに4月8日の閣議で決定されていた韓国の外交を握り、保護権を確立する方針を実行に移すことであり、もう一つは、講和条約でロシアから得た譲与を清国にみとめさせるための交渉方針であった。この両案件を実現して初めて、講和条約で日本側が予期した構想が実現するはずであった。11月2日、韓国に対しては伊藤博文が、清国に対しては小村寿太郎が特派大使に任命された。



韓国保護条約を強要

  まず11月9日京城に着いた伊藤は、15日、通訳以外をしりぞけて韓国皇帝に謁見し、いっきに目的を達しようとした。韓国側でも、すでに公表された日英同盟や日露講和条約に、韓国の保護の文字があることから、日本が遠からずこの要求をもち出すにちがいないとみ、伊藤大使の来韓を警戒する空気が強まっていた。皇帝もまた、日露戦争下の日本のやり方への不満を述べて、伊藤の要求に先手を打とうとした。皇帝は、前年の日韓議定書調印以来、日本の指導忠告をいれて施政の改良をはかろうと考えていたのに、金融は第一銀行が掌握し、郵便・電信・電話事業は日本政府が管理するといったぐあいで韓国政府は傍観しているほかない立場におかれてしまった、さらに韓国軍隊は縮小を要求され、また日本軍は 鉄道・電信の保護と称して一片の軍令を掲示し、これをおかすものは峻厳な軍法によってただちに銃殺にする、そのうえさらに外交権まで日本がとりあげる、という風説が伝わっているのであり、これでは韓国人が日本に悪感情をもつのは当然ではないか、と不満を述べたてた。

  しかし、伊藤はこれに耳をかそうとせず、「韓国ハ如何ニシテ今日ニ生存スルコトヲ得タルヤ」、日本が清国やロシアを追いはらったからではないかと一喝し、外交権を日本に委任されたいとの要求をもち出した。皇帝はこんどは、独立の形式だけは残してほしい、でなければアフリカの植民地なみになってしまうなど哀訴の態度に出たが、伊藤はうけつけず、皇帝が一般人民の意向を察する必要もあると述べるとヽ貴国は専制君主国ではないか、それが人民の意向などというのは人民を扇動して日本に反抗させようとするとしか推測できないとおさえつけた。そして要は陛下が閣臣に日本との協約を結ぶのが適当だという意思を示されることが必要だと強調して4時間にわたる会見を終えた。

  しかし、17日午後の韓国閣議は、林公使から正式に提出された日韓協約案を拒否することに決定した。皇帝は伊藤に使者を送り、大臣たちは自分の意にそむいているから、協定確定はしばらく猶予してほしいと申し入れてきた。伊藤はすぐさま王宮に押しかけて行った。このまま調印が遅れてしまうと韓国の内閣は総辞職し、日本としては交渉相手を失ってしまうかもしれないと彼はおそれた。韓国政府のなかにはあくまで協議を拒み、日本にやりたいようにやらせて世界の公論に訴えるよりないという意見があるとも伝えられていたし、ほんとうにそうした事態になってしまっては日本としてもはなはだぐあいが悪かった。第一、すでに述べたようにポーツマス会議で、韓国の主権をおかすときは韓国政府の合意のもとに行なうという声明を会議録に残しており、ロシアから横槍が入る可能性さえ考えられた。



深夜の調印

 
伊藤は大臣を集め、参政大臣(首相)韓圭高の保護協約反対の訴えを聞いたあと、一人一人の閣僚から意見を求めた。まず外部大臣朴斉純がだんぜん不同意だが皇帝の命令とあればいたしかたないと述べると、伊藤はそれでは命令ならば調印するのだから不同意ではないと分類してしまった。このほか度支部大臣(蔵相)閔泳綺が絶対反対を述べたが、学部大臣李完用は、逆に日韓両国は実力が違うのだから、「未ダ感情ノ衝突セザル、未ダ時機ノ切迫セザル今日ニ於テ円満ニ妥協ヲ達ゲ」ることが望ましいと積極的に賛成の態度を明らかにした。 残る4大臣も李完用に同調した。

  これを聞いた伊藤は、これでは閣議は多数決で協約に賛成ではないか、それなのに調印の手続きをとらないのは日本と絶交するつもりか、と韓参政につめよった。進退きわまった韓が号泣しながら別室にしりぞくと、伊藤は関原の希望をいれて2、3の修正を行ない、宮内府大臣に裁可を求めるよう要求した。皇帝は韓国が独立を維持する力を蓄えたときにはこの協約を撤回するよ うな規定がほしいと希望、伊藤はこれをいれて「韓国ノ富強ノ実ヲ認ムル時二至ル迄」との一句を加え、その場で浄書し、林公使と朴外部大臣が署名調印した。時に夜中の11時半であり、伊藤らが退出しだのは午前零時をすぎていた。

  韓国植民地化の決定的な曲り角がすぎた。協約は、日本が東京の外務省により、韓国の外国に対する関係および事務を監理・指導すること、日本政府の代表者として統監1名を置くことなどを規定した。韓国側閣僚からの、統監は韓国の内政に干渉しないとの字句がほしいとの要望に答えて、伊藤は、統監は「専ラ外交ニ関スル事項ヲ管理スル」との規定を入れたが、前述の修正といい、この修正といい、「結局先方ノ顔ヲ立ツル主義ニテ」(11月29日、林公使の外相宛報告 『外交文書』38の1)といったていどのことでしかなかった。

  12月21日に公布された統監府官制をみると、統監は外交事務の監督以外に、韓国の安寧秩序を保持するため必要とみとめるときは韓国守備軍司令官に兵力の使用を命じ、あるいは韓国政府に傭われている日本政府の官吏を監督するなどの権限をも与えられていた。統監は、軍隊の実力を背景として、韓国政府の重要部門を掌握している日本官吏の顧問たちを指揮するのであり、 韓国の新たな支配者にほかならなかった。韓国保護条約と通称されている第二次日韓協約と、それにもとづく韓国統監府の設置が、植民地化の決定的段階に入ったことを示していることは繰り返すまでもない。したがってそれが韓国民衆の憤激を呼び起こし、植民地化に抵抗する民族運動の出発点となったことも当然であった。



憤激する韓国民衆

  すでに保護条約調印の夜、条約賛成派の筆頭、李完用学部大臣の邸宅に対して焼打ちが企てられており、条約の調印が知れると、条約の破棄、条約賛成の五大臣の処罰を求める声が韓国全土に拡がった。五大臣は国を亡ぼす五賊と呼ばれた。地方からも儒生たちがぞくぞくと上京し、18日からは王官のまえには条約破棄を求める数千人の人々が集まるという日が続いた。皇帝が日本側の警告に従って、上奏をうけつけず退去の命令を下すと、憂国の遺書を残して自殺する者もあいついだ。29日未明からは王宮に集まる人々は万をこえたが、形勢危険とみた日本憲兵隊、警官隊が強硬な弾圧に転じたため、それ以上の発展を抑えられてしまった。

  しかし、一時の状況はおさまったとはいえ、翌1906年(明治39年)から地方での排日武装反乱が起こってくる。両班儒生らの指導するこれらの反乱は「義兵」と呼ばれた。日本軍の土地収用、日本軍を後援とする日本人や一進会員の横暴を怒る農民たちは義兵を支持した。一進会は開戦後日本軍とともに帰国した宋秉oを中心に、日本軍司令部の支持のもとに結成されたものであり、一時は東学教の幹部李容九を加え、しだいに勢力を拡げたが、日本軍をかさにきた横暴や保護条約賛成を宣言するなど、日本の手先的行動によって、東学教徒の支持を失い、日本の御用団体と化していった。

  1906年2月に開始された閔宗植の反乱は、5五月には洪州城を占領、日本が騎兵一個小隊、歩兵二個中隊を送って攻撃しなければならないほどの頑強な力を示したし、6月の崔益鉉らの反乱は失敗に終ったとはいえ、軍規厳正であり民衆の厚い支持を得ていた。日本側の報告でも、捕虜とした「崔以下ヲ金州ニ護送ノ際ノ如キ、沿道ノ老弱男女路ニ跪座シ崔ニ向ヒ合掌礼拝セシモノ少カラズ」(「顧問警察小誌」)とみとめている。これらの武装蜂起はいずれも、祖国の滅亡を座視することはできないとし、日韓協約に反対し、それに調印した現政府の打倒をかかげるものであった。義兵運動は、翌1907年の韓国軍隊解散を機として、解散に反対する軍隊をも含め て、朝鮮全土をおおう武装蜂起に発展してゆくのである。それは以後3年にわたってゲリラ戦で日本軍を悩まし続けた。



難航する北京会談

  民族主義的な抵抗にぶつかったという点では、小村が日韓協約調印と同じ11月17日、慶親王、袁世凱の清国利全権と開始した北京会談でも同様であった。しかも韓国の場合のように武力を背景にするわけにゆかず、また米英の反感を買わないようにする必要があっただけ、いっそう困難であった。

  外国の利権奪取に反対してたちあがった義和団が、列国連合軍に敗退したあとでも、中国の自主独立を求める気運はますます拡がるばかりであった。そして隣国日本のロシアに対する勝利は、中国人の自負心をもかき立て、自立への欲求を強めていた。そのための手段として、まず腐敗した清朝を打倒することを先決とする革命派と、清朝を内部から近代化してゆこうとする変法派が対立していたが、自立の道を求める点では共通していた。

  いまや李鴻章の死後、北洋大臣・直隷総督の地位をついで清朝随一の実力者にのしあがった袁世凱を中心に、清国政府も外国にこれまで与えてきた利権を回収しようという意気込みを示していた。日露戦争によって日本が、ロシアがもっていた利権をうけつぐのを、全面的には阻止できないとしても、少しでも小さくし、またロシア以上の利権要求は、断じて拒否しようというのが、小村を迎えた彼らの気構えであった。すでに日露講和条約成立直後から、清国政府内部では、戦争によって満州の清国人民が蒙った損害の賠償を日露両国に請求すべきだとか、米英から外債を得て日本が得た長春―旅順間の鉄道を買収せよといった声がきかれており、また10月に入ると、清国が鉄道の保護にあたるから守備兵を撤兵してほしい、という意向も伝えられていた。清国側 ができるだけ、満州の主権を回復しようとしていることは明らかであった。とくに鉄道守備兵は のちの関東軍の前身をなすものであり、清国側か最初からこの問題を重視したのは当然であった。

  これに対して日本側は「今回露国ト講和ノ結果、満州ノ一部ハ帝国ノ勢力範囲ニ帰スルコトトナレリ」(10月27日の閣議決定)という考えを基礎においていた。南満州は日本の勢力範囲にしようという日本と、満州の主権を確立したうえで、日本に若干の利権をみとめようという清国とのあいだの交渉が、難航するのは当然であった。会議は最初から清国側の抵抗につきあたった。

 まず清国側は、日露両国撤兵後の満州の秩序維持、施段改善、日本の同意なくして満州を他国に割譲したり他国に占領させたりしない、などの規定を条約に置くことを拒否し、日本側も、清国全権の秩序維持についての声明を会議録に記載することで満足するほかはなかった。

  また日本側のもっとも重視する遼東租借権、長春―旅順同鉄道の譲渡についても、露清間の条約に準じて、日清間で新たな協定をつくることを求め、大連湾の全部と旅順港の一区域を、各国の通商場とし、旅順港に日清両国共用の軍港をおくなどの提案を示してきた。日本は、清国は日露講和条約でロシアが日本に対して行なった譲歩をみとめる、という日本案承認を強要し、清国の提案を討議することも拒否したが、結局、露清間の原条約を守るという但し書をつけることは承認せざるを得なかった。しかし、この原条約に忠実であろうという気は初めからなかった。



鉄道守備兵問題

  清国側が新しい協定を結ぼうとしたのは、ロシアが行なっていた露清条約を無視した越権行為を、日本にひきつがせまいという意思からであり、日本がこれを拒んだのは、ロシアのように租借地や鉄道付属地を実質的に領土化することを望んだからであった。すでにみたように、日露間では、ポーツマス会議で、鉄道守備兵を1キロメートルに つき15名を限度とすることが協定されていたが、この守備兵駐留は露清間の原条約にはみとめ られていないものであった。原条約では、すべての襲撃から鉄道とその従業員を守るのは、清国の義務とされ、鉄道会社は付属地内の秩序維持のために、警察を任命する権限をもつだけだった。

  清国側はこの原条約の規定の実行を主張し、日本軍守備兵を撤退させて、かわりに清国兵を一清里につき5名の割合いで配置し、鉄道保護にあたらせるという案を出してきた。袁世凱は、われわれはこんどの交渉でこの問題をいちばん重視しているが、それは満州にふたたび擾乱が起きないようにしたいからであり、日露両国兵の駐留は擾乱再発のもっとも大きな原囚となると考えるからである、「外国ノ守備兵ヲ留ムルコトハ危険」だというのは、いまや清国全体の意見とな ぅている、と強調した。後の関東軍のあり方からふり返れば、これはまことに的を射た意見であっりた。

  これに対して小村は、日本が危険と考えるのはロシアとの再戦であり、守備隊の制限も、日本からいい出してロシアにみとめさせたのだから、ふたたび日本からその撤退をいい出すわけにはゆかないと反論した。この問題は最後までもみ技いたが、清国側も交渉を決裂させてまで主張を 貫く決意に欠け、結局ロシアが撤兵を承諾したときには、日本も同時に撤兵するという小村の案で妥結した。露清間の原条約を守るということも、早くもこの点で空文化された。

  小村がこの案を出しだのは、近い将来の撤兵を予期したからではなく、ロシアが撤兵を承知することはあるまいとみたからであった。彼は政府への報告で「露国ガ浦潮ヲ保有スル間仮令名義ハ変更スルコトアルモ全然其ノ鉄道守備兵ヲ撤スルコトナキハ固ヨリ明瞭ナルヲ以テ露国ト同時ニ撤退スルコトトナシ置ケバ我ガ方ニ於テ適宜ト認ムル時機マデ自ラ守備兵ヲ置キ得ルノ結果トナリ事実上毫モ差支ナク」(12月10日、『外交文書』38の1)と述べている。ここで早くも、戦い終えたばかりのロシアとのあいだに、清国の利権回収の要求に対抗するための共通の利害関係が意識され始めていることは、注目しておく必要があろう。



安奉線問題

 
こうした清国側の態度からいって、日露講和条約に規定された以外に日本がもち出した利権要求が、強い反発にあったことはいうまでもない。この種の日本の要求は、まず長春―旅順間以外の鉄道利権、鴨緑汪の満州利沿岸での森林採伐権、盛京省沿岸での漁業権、満州十六都市の開市開港などであったが、比較的容易にまとまったのは、森林事業を日清合弁会社で経営することと開市開港だけであり、漁業権要求は日本側で撤回したが、残った鉄道問題は、前述の守備隊問題とともに、この交渉での最大の難関となっていた。

  この鉄道問題とは、第一は、日本軍が戦争中軍用鉄道として清国に推断で敷設した、安東―泰天間、新民屯―泰天間の鉄道を、戦後も日本のものとして改築、運用すること、第二には、長春から古林にいたる鉄道を日本が敷設することを、清国に承認させようとするものであった。これに対して清国側は、軍用鉄道は本来ならば撤去を要求するのが当然であるが、親善の意味で清国で買収することにしたい、ただ安泰線だけは5年間日本が維持するのをみとめる、新泰線にかんしては、かつて清国がイギリスの会社から資金を借りて、山海関―営口鉄道を敷設したさい、新民屯にいたる支線も計画され、これらの支線もイギリス会社の資金によって清国自身が敷設することを契約しており、日本の利権をみとめては、この契約を破ることになる、また吉長線はすでに清国自身で敷設することが決定しているから、日本に利権を与えるわけにはゆかないと回答した。

  日本側は吉長線は、ポーツマス会議で、ハルビン―旅順間の要求を長春―旅順間に譲歩した代償としてロシアにみとめさせたという事情を強調し、新奉線線については、イギリス政府は1899年にロシアとのあいだに、長城以北の鉄道利権に手を出さないという協定を結んでいるのだから、その契約は無効ではないかと反論した。しかし、清国側の態度を変えさせることはできず、結局、新奉線の売渡しをみとめ、吉長線も、資金の半額を日本からの借款によることで発言権を残しただけで、清国自身の手による建設をみとめざるを得なかった。

  安泰線だけはともかく当面は日本の手に残すことを清国側がみとめたが、しかし5年という短期では困るとした日本側は、現在ロシアに対して満州を守る力があるのは日本だけであり、ロシアの再侵略に対抗するには、どうしてもこの鉄道が必要だと主張した。そして清国に5年や10年でロシアに対抗する実力がつくとは考えられないではないか、という点を強調した。それでは、戦争のさいに、清国から日本に貸与するとか譲与するとかすれば差支えあるまいと反論したが、日本側はこの点は譲歩できないと頑張った。結局、撤兵期間を12ヵ月とし、以後2年間を改築期間とし、その後15年間を日本が営業、あとは清国が買収するということで妥結した。この間、袁世凱は、改築がどのていどのものであるかという点を執拗に追及、将来の買収資金の準備のためにも清国が了解しない改築は困ると主張した。日本側は、いざ買収のときに評価すればよいではないかとし、第三国人の評価人を選定して評価させることで落ち着いたが、清国側が近い将来の買収を前提としているのに、日本側には、鉄道を手離す気などまったくないのであった。

  このほか、清国側は大石橋―営口間の支線は、ロシアに鉄道建設材料運搬のため8年の期限でみとめたものであり、期限後に撤去することを求めたが、日本は、のち1909年(明治42年)の交渉で南満州鉄道の支線として承認させた。



満鉄並行線を禁止

 これらの利権のほか、吉林地方において、他国に鉄道敷設権を与え、あるいは他国と清国と共同の鉄道を敷設することもしない、長春―旅順間の鉄道付近に、これと並行する幹線またはこの鉄道の利益を害するような支線を敷設しないことを清国に約束させた。

  これは、南満州を日本の勢力範囲とするための重要な規定であり、満州の利権に対する他の列強資本の進入を防ぐことを意図していた。とくに満鉄並行線禁止の規定は、あとあとまで、中国の自主的な鉄道建設に反対する武器として、つかわれることになるのであった。

  11月17日から始まった北京交渉は、二十二回の本会議の末、12月22日ようやく「満州に関する日清条約」の調印にこぎつけた。条約本文は、清国が日露講和条約第五、第六条におけるロシアの譲歩を承認し、日本は露清間の租借、鉄道についての原条約を守ることだけを規定 した簡単なものであり、開市開港、鉄道守備兵、日本軍撤兵による行政移譲手続き、安泰線問題、 鴨緑江森林利権などは付属協定に規定した。そのほか、さらに秘密の付属取極めをつくり、吉長線問題、吉林地方の鉄道敷設権制限、新奉線問題、満鉄並行線の禁止などは、この秘密の部分の中におかれた。



南満州鉄道株式会社

 この条約によって、日本の満州における戦争の獲物は確定されたはずであったが、じっさいの実施面では、この条約以上のものを既成事実としてゆこうという方向がすぐさま打ち出されるのであり、そのことが、以後の日本の対満州政策を性格づけてゆく基本的なモメントとなるのであった。

  翌1906年(明治39年)、日本が手中に収めた満州の鉄道経営のため南満州鉄道株式会社 (略称「満鉄」)が設立されたが、この設立過程をめぐって清国側から抗議が出されてきた。清国側は、まず露清間の原条約では、鉄道会社は合弁であるべきなのに、日本政府が清国政府になんの相談もなく一方的に設立を命令し、役員を任命するのは不当であり、また原条約とはなんの関係もない安奉線を、長春―旅順鉄道と同様に扱うのは条約違反であるとしたのであった。満州にかんする日清条約を厳密に解釈すれば、清国の抗議が出てくるのは当然であった。

  しかし日本側はこれに耳を傾けようとはしなかった。林公使はこの抗議は「殆ンド常識ツ以テ解スベカラザル突飛ノ空論ニシテ、一々之ヲ相手ニ論駁ヲ重ヌルガ如キハ児戯ニ類ス」(11月19日、外相宛『外交文書』39の1)として握りつぶしてしまっている。満鉄は、1906年6月 7日公布の、「南満州鉄道株式会社設立ニ関スル勅令」を基礎とし、7月13日、日本政府によ る設立委員の任命、9月10日から10月5日の期間で株式を募集、11月26日創立総会を開くという順序で設立されている。

  この間、清国に対する配慮としては、「設立ニ関スル勅令」で株式所有者を日清両国の政府および国民にかぎると規定し、8月24日、林公使に対して株式公募の開始を清国政府に申し入れることを命じただけであった。さきの清国側の抗議はこの申し入れに対して11月10日に発せら れたものであった。

  日本が満鉄を日本の国策会社と考えていることは、この設立経過だけからでもわかるが、8月1日、外務、大蔵、逓信三大臣が連名で設立委員にあてた命令書をみると、もっとはっきりする。そこには、日本政府は満鉄に対して、株式配当や社債元利の保証などの手厚い保護を与えるかわりに、満鉄の方では、重要業務にかんして政府の認可を必要とし、政府が指定する場合には、い つでも鉄道や土地などを提供する義務を負うという特殊な関係が規定されていた。命令書が秘密にされたのは、これが満州にかんする日清条約の趣旨に明らかに違反していたからであろう。



満州植民地化の構想

 日本にとって満鉄は、たんなる鉄道会社にすぎないものではなく、鉄道付属地という名の植民地を統治し、さらに植民地を拡大するための機関にほかならなかった。命令書は満鉄に対して、付属地の土木、衛生、教育にかんし必要な施策を行なうことを命じ、その費用を住民からとりたてる権利を与えた。そして、清国の行政権をまったく閉め出し、遼東租借地と同様、日本の領土として扱ったのであった。付属地といっても線路の敷地は一部にすぎず、停車場周辺の市街地が主要な部分を占めており、満州の交通の要衝に日本の小領土がつくられたことを意味した。日本は清国からの抗議を無視して、安泰線敷設のために買収した土地をもこのような付属地として扱っていった。

  しかも日本はこの新たな植民地だけで満足しようとはしなかった。11月13日、後勝新平満鉄総裁に渡された閣議決定の命令書では、満州の金融業務を扱う横浜正金銀行、資金供給にあたる日本興業銀行の二特殊銀行と満鉄を、「淡州ニ対スル国家的最モ重要ノ経済機関」とし、三者が協力して「満州ニ於ケル重要ナル起業ハ、ナルベク邦人ノ手ニ帰セシメソガ為メ」に努力することを命じていた。開戦前から講和まで一貫して米英に約束してきた満州開放は、早くも忘れられ、満州の利権を独占しようという野望が頭をもたげていた。そしてこの野望は、軍隊に支えられてふくれあがる傾向をもつものであった。

  8月1日、遼東租借他の統治と、租借地および鉄道の守備という2つの任務をもち、民政部と陸軍部からなる、関東都督府が設置された。これは日本軍の占領地軍政機関を直接にうけついでつくられたものであり、軍事的色彩の強い機構であった。都督は陸軍大、中将にかぎられ、満州軍総司令部が設置した関東総督府時代に総督であった陸軍大将大島義昌が、そのまま都督の地位 についた。

  こうした体制がつくられたことは、満州支配を維持し拡大しようとするにあたって、軍事的観点が優先したことを物語っている。いいかえれば、それは、ますます高まりつつある中国の民族運動に対して、いささかも譲歩することなく、軍事力によっておさえつけてゆくという構えでもあった。それはまた、朝鮮において、日露戦争が終ったあとで、保護衛の確立から韓国併合の過程を進めるために、むしろ兵力を増加しなければならなかったことと対応してもいた。そしてそこが、日露戦争後の日本の出発点でもあった。

6日露協約―結びにかえて―