1966年8月

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日露戦争


表紙

古屋 哲夫

はしがき
1ロシアの極東進出と日本
2戦争に踏み込む
3満州が主戦場に
4決戦を求めて
5ポーツマス講和条約
6日露協約―結びにかえて―

1ロシアの極東進出と日本
中国分割の進行
北清事変
朝鮮支配をめぐって
日英同盟の成立


1ロシアの極東進出と日本


朝鮮支配をめぐって



ロシアの朝鮮進出と朝鮮分割の構想

 これに対して日本が直接におそれたのは、ロシアの勢力が満州からさらに朝鮮までのびてくることであった。日清戦争まで日本は、朝鮮をめぐって清国との争いを続けていたが、この戦争の勝利によっても朝鮮支配を確立できなかった。戦争中の露骨な干渉は、朝鮮側の反感を高め、三国干渉への屈服で日本の威信が落ちたところをねらって、95年(明治28年)7月、宮廷の実権を握る閔妃一派は親日派を追い出して、親露派の政府をつくった。これに対して日本側は日本軍と大陸浪人を中心にしたクーデターで閔妃を殺害し、ふたたび親日派政府をつくったが、この乱暴なやり方に反対する反日運動が各地に高まったのは当然であり、翌96年2月には、韓国国王はロシア公使館に逃げ込み、そこから親日派一掃を命ず るという事件が起こった。首相金宏集が白昼惨殺されるという結果をみても、日本の軍隊を背景にした親日派政権がいかに民衆から浮きあがり、弱体であったかを推測することができる。

  以後韓国国王は1年のあいだロシア公使館に留まるのであり、この閔妃殺害−国王のロシア公使館逃込み事件が、朝鮮における日本の影響力の決定的低下、ロシアの勢力の拡大をもたらしたことは当然であった。日本はこの善後措置のため、96年5月、京城で小村・ウェバー協定、さ らにロシア皇帝戴冠式に参列した特派大使山県有朋とロバノフ外相とのあいだに、同年6月山県・ロバノフ協定を結んだが、ロシアの優位をくつがえすことはできなかった。山県はこの交渉にあたって、朝鮮における日露の関係を対等にしようとし、出兵の場合の駐兵地域を決め、そのあいだに中立地帯をおくことを提議し、実質的に朝鮮を両国の勢力範囲に分割しようとした。その境界線は「大同江辺」とか「京城ノ南北」とか資料により一定しないが、要は朝鮮を南北に分けようというものであった。ロシアは駐兵地域はその場になって決めればよいとして分割を拒否したが、このさいの中立地帯の構想は、その後の日露交渉で、こんどはロシア側からもち出されることになることはあとにみるとおりである。山県も、ロシアが朝鮮に軍事教官を送るのを阻止することはできなかった。



西・ローゼン協定

 ロシア側は、山県・ロバノフ交渉と並行して、ウィッテと李鴻章の交渉を進めていた。ウィッテは、同じく戴冠式に参列した李鴻章とのあいだに、日本を仮想敵国とする攻守同盟、東清鉄道利権の獲得などを内容とする密約を結んでいた。この密約の秘密は厳重に守られ、日本政府は、日露戦争開戦後まで知ることができなかった。この直後、ロバノフ外相はこんどは朝鮮公使と密約を結び、ロシアが朝鮮国王の安全を守ること、軍事教官財政顧問を送ることをきめた。

  ところでこの2年後、族順、大連租借、東清鉄道支線の族順への延長権を得ると、ロシアの政策は、先に述べたようなイギリスとの対抗の傾向を強めるのであり、日本の不満をやわらげるために、西・ローゼソ協定を締結、対日関係調整の政策をとった。

  ロシアの朝鮮政策も租借地要求などの強引なやり方で韓国利の強い反発をよんでいたため、ロ シアは思いきって軍事教官・財政顧問をひきあげた。そして駐日公使ローゼソと西徳二郎外相とのあいだで、98年(明治31年)4月、(一)両国は韓国の独立をみとめ直接の内政干渉を行なわないこと、(ニ)軍事教官、財政顧問を送るときは両国で事前に協議すること、(三)ロシアは朝鮮における日本の商工業の発達をみとめ、その発展を阻害しないこと、という協定に調印した。なお、この前年10月、朝解国王は国号を「大韓」として、あらためて皇帝即位式を行なった。ところで、 この協定でみとめられた経済的優位を、現実の利権として実現してゆくカ―日本の資本輸出力もはなはだ弱いものであった。「欽道経営ハ我ガ対韓経営ノ骨髄ナリ」というのは、さきにも触 れた「清韓事業費」にかんする閣議決定の一節(明治35年)であるが、それは、京仁、京釜両鉄道の敷設権を実現することでさえ容易でないといった、現実への"あせり"を表現していた。

  東清鉄道、その旅順への支線の建設を着々と進めているロシアとくらべれば、その資本力の差 は歴然たるものであった。それはたんにロシアと日本の差ということではなく、ロシアの背後にフランス資本があったことにみられるように、国際的な金融資本とのつながりをもたない、日本の弱さをも示していた。



朝鮮での利権奪取競争

  しかも、日清戦争後の利権獲得競争は、清国ばかりでなく、朝鮮をもその対象にまき込んでゆくのであり、鉱山、鉄道などをめぐる列国の対立、競争が激化 してゆくのである。もっとも、日本とロシア以外の場合には、個々の資本家の暗躍が中心であり、政府の支援、介入は清国におけるように強力なものではなかったのであるが、日本とロシア、と くに日本の場合には、政治的支配の確立が基本的な目標とされており、私的な資本家が表面に出 ている場合でも、政府の強力な支援を得、さらには、政府の直接の手先となっている場合さえみられた。

たとえば、明治31―32年にかけての木浦、鎮南浦、馬山浦などの居留地買占めでは、居留地の重要部分を日本人個人の名義で買いとり、その代金、租税などはいちおう日本の出先領事が支払い、のち外務省から陸軍省に請求するというしくみになっている。つまり居留地のうち軍事的につかえそうな場所を他国の手にわたらないように確保するのが目的であり、この売買には政治的圧力が加えられたことが推測される。

  同じことは鉄道の場合でもいえる。資本力では鉄道利権の独占をはたせない日本は、政治的圧力を加えて朝鮮政府が他国に利権を与えないよう妨害し続けることになる。いいかえれば、ロシアの勢力の増大のために、軍事的圧迫による支配の確立という性急な方法をとり得なくなった日本側は、経済的利権を押えて、それによって政治的影響力を拡大するという道を求めるのであるが、列国資本の進出が激化するという状況のもとでは、政治的圧力によらなければ、経済的利権も確保しがたいという矛盾に陥っていた。

  そのために、政治的圧力で借款を押しつけて、金融的支配を強めようというやり方が、日清戦争時からつねに繰り返された。列国資本家の朝鮮における利権獲得競争は1900年頃から、借款競争の様相を呈し始めていた。韓国皇帝は財政、幣制整理、さらには新事業を企画して借款を希望したし、その間にアメリカ、イギリス、ロシアなどの資本家の暗躍が始まった。これらの動きを阻止することが、日本の朝鮮政策の重大な問題となってきた。

  林公使は、つぎのような策を立てた。こうしたいろいろな動きがあらわれるのは、海関税収入に余裕があるためであるから、日本から大口の借款を与えて、他の借款のための担保をなくせばよい。しかもそれをめだたないようにするために、すでに海関事務を握っている第一銀行から、 朝鮮政府の必要に応じて500万円までの枠内で引き出せるようにすればよい、というのである。

  山県内閣はこの林の案をみとめ、内閣の予備費から250万円を融通する話合いまで行なわれたが、内閣更迭により第四次内聞を組織した伊藤博文はこの借款案を拒否し、不成立に終らせた。このときの伊藤首相の考え方は明らかでないが、のちにみるような、日露協商への執着から みれば、このとき、朝鮮支配を進めるまえに、ロシアとの協定を必要と考えたのではなかったかと思おれる、その後、翌1901年には、フランス、イギリスの企業家よりなる雲南シソジケー トが、フランスの駐韓公使の支持を得て借款を成立させ、日本はイギリス政府の支持のもとに1902年にかけてこの借款阻止に苦闘し、その間、ベルギーの資本家、露清銀行などが借款供与に乗り出してくるといった状態が続いてゆくのである。

  つまり、日清戦争後の利権獲得競争の激化という点では、清国も韓国も変わらなかったのであり、日本は、このなかで、決定的優位に立てないままで、日露戦争を迎えることになるのであっ た。

  ところで、こうした状態のところへ、1900年には、ロシアの軍事的策動があらわれてきた。北清事変に対する列国の出兵が行なわれる2ヵ月前の4月15日、ロシア軍艦マンチュリア号は、馬山浦にきたり、武装兵を上陸させ、同時に駐韓公使パヴロフは、韓国政府に同地の租借、その前面の巨済島不割譲を要求するという事件が起こった。がんらいロシア海軍省は、旅順、大連租借にあたっても、朝鮮沿岸に基地をもつことの必要を強調していたのであったが、この朝鮮海峡をのぞむ馬山浦租借要求は、日本政府を強く剌激した。日本側は、巨済島の一部租借の要求でこれに対抗、韓国政府も租借をみとめなかったが、このロシアの軍事行動は、続いて起こったロシアの満州占領が植民地化、永続的な領有という結果に終るならば、ふたたびより強いかたちで繰 り返されるにちがいないという脅威を日本の支配層に与えたのであった。

  この事態に対してどういう方策を打ち出すかは、成立したばかりの政友会をひきいて、伊藤が組織した第四次内閣の課題となった。外相には加藤高明が就任した。

加藤外相の第一手は、英独協定への加入であったが、それがドイツの満州不適用の態度によっ て、通称のとおりの揚子江協定に終り、ロシアヘの対抗として有効でなくなったことはすでに述 べたとおりである。



ロシア、韓国中立化を提議

  ところでロシアは、1900年秋から、清国側に満州でロシアの利権をみとめさせようとして、露清密約の交渉を行なっていたが、そのかたわら、1901年(明治34年)1月7日、日本に対しては、韓国を列国の共同保障のもとに中立化させようと提議してきた。ロシアとしては、満州は支配しても朝鮮に支配をおよぼそうという気はないところをみせて、日本を安心させようというつもりだったのであろう。

  これに対して、1月17日、ロシア公使と会談した加藤外相は、ロシアの満州撤兵が実現することが先決であり、韓国中立化の問題はそれからでも遅くはない、としてロシアの提案を拒否した。ロシア公使は、満州問題と韓国中立化は別個の問題ではないかと抗議したが、加藤はこの二 つの問題を分離してみることはできないとつっぱねた。そして政府の意見ではなく個人の意見と しては、中立保障の範囲を満州にまでおよぼすか、または日露間に勢力役囲を分割するということになれば話は別である、とつけ加えた。しかしこの点については、ロシア公使はなにも答えるところがなかった。

  加藤をついで外相となり、日露戦争期の外交を指導する小村寿太郎は、このとき、駐清公使の職にあったが、彼も、1月11日、これと同様の意見を外相に具申していた。

  「雪国ガ該提議ヲ為シタルハ其満州ニ於ケル行動ノ自由ヲ望ムニ基因スルモノタルコト明確ナルニ依リ、之ヲシテ満州問題ト関連セシムルニアラズソバ、韓国問題ノ解決ハ満足ノモノニ非ラズ、 故ニ露国ガ満州ヲモ中立地トナスコトニ同意セザル限リハ如何ナル場合ニ於テモ日本政府ハ露国 ノ提議ヲ容認セザルコト極メテ緊要ナリ、若シ斯クスルコト能ハザルニ於テハ日本国ハ韓国ニ、雪国ハ満州ニ各勢力範囲ヲ分割スルコトヲ主張スルノ他方法ナシ」(『外交文書』三十四)

  のちに日露戦争に至る日本とロシアの対立点は、すでにこのロシアの韓国中立化提議と、それをめぐる日本側の対抗策の中にみえている。日本側の主張の中心は、満韓問題は切り離せないと いう点にあったのであるが、それはロシアからみれば、日本と関係ないロシアと清国とのあいだの交渉に対する日本の横槍と映るのであった。



露清密約に抗議

  韓国中立化問題についで、ロシアの満州にかんする要求の内容が明らかとなってきた。それは前年11月11日、ロシア軍司令官アレキシエフと奉天将軍増祺とのあいだに結ばれたものであり、ロシアは以後、清同政府に正式の承認を求めていた。日本は清国側からこの条約案を得たが(三月一日、小村駐清公使、加藤外相宛打電)、その内容は十二 ヵ条におよぶものであり、満州が平穏に帰し、清田が東清鉄道などの損害を賠償するまでロシア軍の駐兵をみとめる。東清鉄道完成までは、清国は満州に軍隊を置かない。清岡はロシアの申し 出のあった場合には、満州における地方官を更迭する。鉱山、鉄道その他の利権はロシアの承認 なくしては、他国または他国人に譲与することができない。東清鉄道から北京に向かう鉄道敷設権を与える、などが主要な条項であった。

  日本は、イギリス、アメリカとともに、ロシアに抗議するとともに、清国に対してこの要求を拒絶するよう強く働きかけた。

  加藤外相が、さきにあげた意見書で日露開戦を含む三策をあげたのは、こうした状況に対応するものであった。しかしロシアも目本、イギリス、アメリカに支持された清国の拒絶にあって、交渉の進展をあきらめ、4月8日、ロシア公使は加藤外相に交渉中止の覚え書をもたらした。当時、露清密約と呼ばれたこの条約案を不成立に終らせたことは、加藤にとって1つの成功にはちがいなかったが、問題の解決に近づいたわけではなかった。ロシア軍は依然として満州を占領し続けていた。加藤としては、第二の手を打たねばならなかった。その手がかりとなる電報がとび込んできたのは、露清密約交渉中止の覚え書をうけとった2日後であった。

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