1966年8月

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日露戦争


表紙

古屋 哲夫

はしがき
1ロシアの極東進出と日本
2戦争に踏み込む
3満州が主戦場に
4決戦を求めて
5ポーツマス講和条約
6日露協約―結びにかえて―

1ロシアの極東進出と日本
中国分割の進行
北清事変
朝鮮支配をめぐって
日英同盟の成立


1ロシアの極東進出と日本


日英同盟の成立



日英独同盟の構想

  1901年4月9日、駐英公使林董は、日英独三国同盟をめざす動きがあることを、加藤外相にあて打電してきた。翌日、加藤がうけとった電報には、イギリス駐在ドイツ代理大使エッカルトスタインが、彼の私見として、極東での勢力均衡を実現するために、日本、ドイツ、イギリスの三国同盟をつくる必要があること、その条件として、日本の韓国における自由行動をみとめること、同盟の一国が他の国と戦争を始めたときは、同盟関係にある他の二国は中立を守ることをあげているとの報告が記されていた。さらにエッカルトスタイソは日本からこのことを提議すれば、イギリス政府は同意するにちがいないし、ドイツでも、 この同盟に強力な賛成者があるからおおいに見込みがあると林公使をたきつけた。

  林はエッカルトスタインの意図やその自信満々たる態度に疑いを抱きながらも、もしこの同盟が実現すれば、日本にとって大きな利益だと考え、4月27日にはさきの英独揚子江協定を強化拡大し、日本の朝鮮における自由行動の容認など六ヵ条にわたる同盟の骨子をつくり、加藤外相に提議した。しかし、東京からは、折り返し、英独間にこの問題について話合いが行なわれたかどうかを探れ、という外相訓令がとどいただけで、モれ以上積極的な返市は返ってこなかった。林はいささか不満であった。

  それには2つの市特があった。1つは伊藤内閣の動揺であり、1つは、対外政策における構想の相違があらわれ始めてきたことであった。  伊藤内閣内部では、緊縮財政を主張する渡辺国武蔵相とそれに反対する他の閣僚の対立が激化 しており、収拾できなくなった伊藤は5月10日辞職、6月2日には桂太郎の第一次内閣が出現するという政変にまでいたっていた。日清戦争後、明治29年度から実行に移された軍備拡張計画―陸軍を七個師団から十三個師団に、海軍を5万屯から20万屯に拡大するという大拡張計画―は、財政の大きな重荷とっており、その財源を地租増徴に求めようとする政府と、これに反対する地主勢力の対立が大きな政治問題になっていた時期である。伊藤の率いる政友会内部でも、地租増徴に対する抵抗は大きかった。伊藤の前の山県内閣も、そのあとの桂内閣もこの問題で悩まされていた。



「東洋同盟論」

  こうした軍事的財政的状態からすれば、ロシアとの対立を解消するためにすぐさま戦争に訴えるという方法には慎重にならざるを得なかった。対露強硬論者 として知られた加藤高明にしても小村寿太郎にしてもこの点では同じであり、朝鮮中立化問題のところでふれたように、満州をロシアに、朝鮮を日本にといういわゆる「満韓交換論」を、当面 の対露政策としてみとめざるを得なかったのである。

  しかし同時に、彼らが日英同盟の強力な推進者となったのは、ロシアとのあいだにたとえ日本の望む協定ができたとしても、それだけでロシアの進出を防げるかどうかを疑問としたからであ り、また日露関係の安定だけでは、中国分割の進行という事態に対応することができないと考えたからでもあった。

  元老の中では山県有朋がこの考え方を支持していた。彼は日英独三国同盟に向かって駐英林公使が動き始めたばかりの4月24目、伊藤首相に「東洋同盟論」と題する一篇の意見書を送り、 この同盟を成立させるために努力すべきだと強調した。彼は、この話がエッカルトスタインから林公使にもたらされた裏では、ドイツとイギリスの交渉が進んでいるものと考え、その目的は、 中国分割という必然の成行きに対して、華北、華中での市場と利権を確保しようとする点にあるとみた。したがって日本もこの同盟に加われば、中国大陸における市場、利権の拡大を期待することができ、福建、浙江に勢力範囲を確立する機会も生ずることを強調しているのであった。ロ シアに対する関係では、この同盟がロシアの南下を抑制する効果をもち、戦争を未然に防ぐ作用 をはたすことを期待した。つまり、これで朝鮮問題が解決するとは考えなかった。彼は「約款中、 朝鮮に於て我に自由行動を与ふと云ふは、其の如何の程度に在るを知らずと雖も、我に於て日露協商の存する間は、此の以外に出るを得ず、若し其意、朝鮮は盟約以外と見做し、他日露国との間に如何なる協商を為すも、日本の自由行動に任すと云ふに在らば、是尤も幸なり」とのべてい る(『公爵山県有朋伝』中)。

  ここで日露協商とはさきの西・ローゼソ協定をさしているのであり、その意味は、エッカルトスタイソのいうとおりにイギリスやドイツが朝鮮における目本の自由行動をみとめてくれたとしても、現実に日本が朝鮮で対立しているのはロシアであり、このロシアとの西・ローゼソ協定にしばられている。だから朝鮮については、西・ローゼソ協定にかえて、どんな協定をロシアと結んでも自由だということにしてくれなければ意味がないというのである。
  山県は、だから、日英独同盟がロシアとの戦争の道と考えたのではなく、これとは別にロシアとの交渉を必要としたのである。三国同盟は、中国分割における日本の立場を強化すると同時に、ロシアとの交渉のさいの目本の力をも強めるものとされたわけである。  



イギリスヘの期待 

 
こうした考え方の基本では、小村寿太郎の場合も同様であった。小村は9月7日、日本全権として北清事変にかんする最終議定書に調印して帰国、9月21日外相に就任したが、12月7日の元老会議に意見書を提出、日英同盟と日露協商の利害を比較してつぎのような点をあげている。

  彼は、ロシアに対して目本の要求を貫徹することは、「純然タル外交談判ノ能クスル処二非ズ」 とし、その方法には、戦争に訴える決意を示すことと、第三国と結んでロシアに対する立場を強化することの2つしかないという。そしてできるだけ戦争を避けて、イギリスと結ぶ第ニの方法をとるのが良策だというのである。しかも、イギリスとの同盟の具体的利益をつぎのようにあげている。

  侵略主義のロシアと協約を結んでも一時的のものに止まるのに対して、領土的野心のないイギ リスと結べば、東洋の平和を比較的恒久的に維持でき、その方が清国人の感情を害さないですむ、また経済的には、満州やシベリア地方との通商よりも、世界中に植民地をもつイギリスと結んだ方が通商上の大きな利益を得ることができるし、清国における利権の拡張も容易になる、さらには、英露の対抗を考えれば、ロシアの海軍と結んでイギリスの海軍に対抗するよりも、イギリスと結んでロシアの海軍に対抗する方がはるかに容易である、そのうえ、朝鮮問題についての対露交渉の側面からの圧力になるし、イギリスからの財政上、経済上の援助を得ることも可能になるのではないか、というのが小村の意見であった。

  つまり、イギリスと結んで帝国主義国の一員としての地位をしっかり固めてから、ロシアと交渉すべきだというのであった。とくに国際的金融資本と結合することの重要性を指摘している点 は注意しておいてよい。のちにみるように日露戦争の戦費の半分は、イギリスとアメリカの金融市場で募集した外債に頻っていたのであったし、軍備拡張の負担にたえてゆくためには、外債発行が必要となってきてもいた。

  財政難で倒れた伊藤内閣をついだ桂内閣は、組閣2ヵ月後の1901年8月には、アメリカ市場での外債募集を企てたが、11月には、その失敗が明らかになるという一幕も演じられていた。



日露協商への動き

 
ところで、このような日英同盟促進論者に対して、伊藤博文や井上馨らの元老は、日露協商の急務であることを強調した。といっても、彼らが日英同盟 の意表をみとめなかったのではない。首相となった桂太郎は、日英同盟推進についての了解をと りつけるため、8月3日、大磯に伊藤を訪開、その翌日には、伊藤が葉山の別荘に桂を訪問し、この2日にわたる会談で、伊藤も趣旨としては日英同盟に賛成した。

  しかし、伊藤は、このとき桂に対しては述べなかったようであるが、日英同盟が朝鮮開題を直接に解決するものでなく、むしろその成立がロシアの態度を硬化させる危険があると考えていたと思おれる。しかし、彼はイギリスとの同盟がすぐに実現するとは思わなかったのであろう。これまで世界帝国を誇り、「光栄ある孤立」を保ってきたイギリスが、急速な発展を示しているとはいえ、その前々年、1899年にやっと領事裁判権の撤廃を実現し不平等条約から抜け出したばかりの日本と、そう筒単に同盟を結ぶと思わなかったのも無理もないところである。したがっ て伊藤としては、日英同盟に主義として賛成と答え、反面、当面の目標を西・ローゼン協定を改訂する新たな日露協定の締結においても別に矛盾を感じなかったのであろう。

  ちょうどこのころ、1900年末から翌年前半にかけては、さきに述べたロシアの朝鮮中立化の提案、それと同時に、日露提携論を政界の有力者に熱心に吹き込もうとしていた在日ロシア公使館参事官パクレウスキーの動きなどから、ロシアが馬山浦の基地要求のような朝鮮進出策を転換し、したがって日本と満韓交換的協定を結ぶ可能性もあるのではないかという希望的観測もあらわれていた。

  こうした状況の中で、伊藤博文はみずからロシアに渡り、新たな日露協商の実現を期することになるのであり、日英同盟の交渉と日露協商の交渉とが並行し、対抗して進められることになっ た。

  伊藤が外遊の希望をもった直接の動機は、エール大学が創立200年の式典をあげるにあたって、伊藤に名誉法学博士の称号を贈ると申し出たことであったが、井上馨はこのさい、欧州からロシアに足をのばして、朝鮮問題についてロシア当局者と会談することを強くすすめた。

  九月十三日、桂首相は、伊藤、山県、井上らを招き、伊藤送別の宴を開いたが、山県が伊藤に独断専行しないようにクギをさすと、伊藤はそんな小うるさいことをいうなら外遊をやめてもよいと反発、桂がとりなしたものの、その背後には日英同流と日露協商、つまり、対外政策のつぎの一手をめぐる構想のちがいが存在していた。9月17日、伊藤は東京を出発して行った。



日英独同盟から日英同盟へ

  この間にイギリスはしだいに日本との同盟に積極的になってきていた。林公使に日英独同盟の可能性を吹き込んだエッカルトスタインは、同時にイギリス側 にも同様の活動を示したが、この英独間の交渉は急速に行き詰まってしまった。がんらい、この三国同盟論は、エッカルトスタインの個人プレーの色彩が強く、ドイツ政府の方はむしろ、消極的であり、5月に帰任した駐英ドイツ大使ハッツフェルトは、イギリスがドイツ、オーストリア、イタリアの三国同盟に加入することを求めた。つまり、ヨーロッパで露仏同盟と対抗していた三国同盟の方に、イギリスが加わるなら、同盟の話を進めようというのが、ドイツ本国政府の意向であった。すでに英独揚子江協定は満州に適用されないと声明していたドイツは、イギリスに利用されてロシアと対抗する不利益を警戒することを主にしていた。

  反面、中国大陸におけるロシアの進出への対抗という点を重視していたイギリス側は、三国同盟に加わったのでは、オーストリアやイタリアのヨーロッパでの動向によって戦争にまき込まれるおそれがあり、そんなことは問題外と考えた。したがって英独間の同盟の話はここでほぼ終ってしまうのであり、イギリスとしては、ロシアと極東で対抗するためには、ますます日本を必要とすることになるのであった。

  たとえば、帰国して国王やソールスベリー首相と会見したイギリスの駐日公使マクドナルドは、7月15、16日、林公使を訪れ、イギリスの最高首脳者は日英同盟を望んでいることを告げ、さらに、日英同盟交渉が長びいているあいだに、日本はロシアと日露同盟を結ぶ心配はないかと質問した。また8月14日、林公使と会談したラソスダウソ外相は、極東にかんしては日本の方が利益関係が大きいのだから、まず日本の希望する案を出してはどうかともちかけた。

  林公使は7月18日には、イギリス側は日露の結合をおそれているから、イギリスとの同盟ができなければロシアと結ぶという素振りをみせれば、日英同盟交渉は好都合に運ぶだろうという意見を具申してきた。この点は、林のいうとおり、のちに伊藤のロシア訪問が日英同盟を促進する作用をはたしたが、桂首相らが伊藤外遊にさいしてこの意見をどう考慮していたか不明である。



日英交渉の急進展

  9月21目外相に就任した小村は、10月8日林公使に同盟交渉の権限を与え、林は10月16日ラソスダウン外相と会談したが、11月6日にはイギリ ス側から最初の草案が林に手渡された。それは日本側の予想をこえた急スピードな進展であり、 ロシアに向かう伊藤博文の勤きを考慮したものであった。

  桂内閣はおおいにあわてた。伊藤はニューヨークから11月13日パリに着いたが、桂首相は、 伊藤にあてロシアに向かわずパリに滞在することを望む電報を打ち、小村外相は、林駐英公使に対し、パリにおもむいて、伊藤に日英交渉の進展ぶりを報告し、イギリスから出された草案の大体の趣旨に賛成をとりつけるよう命じた。

  しかし、林からの説明をきいた伊藤は、桂首相の要請とは逆に、ペテルスブルグヘ急ごうとし、 日英同盟成立より先に、日露交渉を行なうことが重要だと考えた。11月15日、桂にあて「貴下ハ余ガ露国政府ト意見ノ交換ヲ遂ダル迄(日英同盟に対する)確定ノ判断ヲ廷バサルル方得策ナ ルベシ」と打電した。伊藤としては、日英同盟の意外な進み方におどろき、さきにみたような対外政策における構想 のちがいを改めて認識したであろうし、また、日本における最大の実力者としての自負が、自分をさしおいて日英同盟を進めようとする桂への憤激を生んだのでもあったろう。

  桂もやむなく態度を変え、11月20日、伊藤に対しイギリスヘの回答をのばすことはできないから、なるべく早くロシアに行ってくれるよう要請し、あわせて、もはや日英交渉を離脱するわけにはゆかないことを念頭においてほしいと電報した。同じ日、林公使と会談したラソスダウ ソ外相は、同盟交渉をできるだけ早く進めることが必要だと強調し、日本がロシアと別約を結ぶようなことがあれば、はなはだ遣憾だと述べた。 

  しかし伊藤はこうしたイギリス側の思惑を顧慮することなく、ロシアに入り、11月28日ニコライニ世に謁見、12月2日ラムスドルフ外相、翌日ウィッテ蔵相と会談、12月4日にはふたたびラムスドルフを訪問して四ヵ条の覚え書を提出した。すなわち、(一)朝鮮の独立、(ニ)朝鮮領土を車事的目的に使用しないこと、(三)朝鮮海峡の自由交通を阻害するような軍事的設備を朝鮮沿岸に建築しないこと、という三点を相互に保証すること、(四)政治上・工業上・商架上の関係については、日本は朝鮮で自由行動をとる権利があり、また韓国の施政改革につき、軍事援助をも ふくむ「助言及援助」を行なうのは、日本だけの「専権」であることをロシアが承認すること、 というのであった。

  つまり、第一から第三の保証をして、第四項をみとめさせようというのである。
  これをみたラムスドルフは渋い顔をした。彼は、これでは日本の利益ばかり規定していて、ロシアにとっては譲歩だけではないか、朝鮮の独立を保証するといっても、政治的にも軍事的にも 干渉することができる独立などというのは、はっきりいえば、有名無実ではないかと不満を述べたてた。

  といっても、朝鮮民族のために独立を守ってやろうという気持がまったくないことは、ロシア側も日本側と同じであり、このとき彼がいい出したのは、朝鮮で日本の自由行動をみとめるかわ りに、清国ではロシアの自由行動をみとめろという案であった。伊藤は、ではロシア側がいう清国とはどの範囲かと問い返しているが、要はすでに述べてきたような、日本側でいう満韓交換論的な要求と理解し、それならば日露協商の基礎はできあがったと考えたのであった。

  すでにその前日、ロンドンの日本公使館から派遣された松井書記官から日英同盟の日本側修正案を渡され、桂首相からの、至急その案についての意見を求める電報をうけとった伊藤は、この 日、ラムスドルフ外相との会談を終えるやロシアを去ってベルリンに向かった。



伊藤、日露協商の先決を主張

 12月6日、伊藤は桂にあて、ロシアとの交渉の報告と、日英同盟修正案に対する意見の2通の電報を打った。その中で彼は、さきの3項目の保証でロ シアに、朝鮮での日本の自由行動をみとめさせたこと、ロシアの要求は満州における自由行動と推測されることを報告し、「余ハ序ニ一言スベシ、露西亜ハ既ニ満州ヲ経営シ実際自由行動ヲナシツツアリ」とつけ加えた。つまり、ロシアは満州ですでに自由行動をやっているのだから、これをみとめたとて、日本の譲歩としては軽いものであり、この協定は日本に有利だという意を含ませたのである。

  そして「余ノ見ル所ニ依レバ、朝鮮ニ対シテ利害関係ヲ有スル唯一ノ国ト協和ヲナスニハ、今日ヲ以テ最モ適当ナル時機トナスナリ、余ハ親交的協和ヲ試ミンコトヲ熱心ニ帝国政府ニ勧告ス、 而シテ此ノ協和タル日英同盟締結以後ニ在テハ終ニ之ヲ為シ能ハザルニ至ラン」と書いている。日露協商をつくるならいまだ、日英同盟より先にしなくては実現の可能性はなくなると伊藤は叫ぶのであった。

  12月17日、伊藤はベルリソ駐在のロシア大使から、ラムスドルフの修正案を手渡された。
 
  その内容は、さきの伊藤案の第一から第三をそのままみとめ、第四では、朝鮮独立の原則を守 るため、日本の「助言及援助」の権限を工業上・商業上にかぎり「政治上」の語を削り、ロシア と事前協議を行なう規定を加えるという修正を行なった。さらに伊藤案にないニヵ条を加え、第五では内乱などのさいの日本の出兵は、必要な兵数をこえず、事件解決後ただちに召還すること、 ロシア国境に接近した地帯をあらかじめ議定し、日本軍は、決してこの地域にたち入らないようにすること、第六では、日本は清国のロシア国境に接近する地方におけるロシアの自由行動を妨害しないことを規定していた。

  伊藤はこの修正案に不満であったが、しかもなお、日露協商の可能性を信じていた。
 
  しかし12月7日の元老会議は、日本側の日英同盟修正案を決定した。先にあげた小村外相の日英同盟と日露協商を比較した意見書が提出されたのはこの会議であり、帝国主義的地位を確立するために、日英同盟をえらぶ、という小村の意見が採用されたのであった。伊藤は12月23日、ブラッセルからラムスドルフに打電し、彼の修正案への不満を述べ、その案は将来の協商 の基礎として日本政府に建議するのに適さないとし、交渉の打切りを告げたのであった。歴史を うしろから眺めるとすれば、たしかにこのとき、目本の支配層は、日露戦争に向かって一歩動き始めていた。



戦争のさいの協力

 ロシアとの交渉において、伊藤の自負にもかかわらず、日本の朝鮮支配をみとめさせることが容易でなかったと同様に、日英同盟交渉においても日本側がもっとも苦心し、しかも満足な成果を収められなかったのは、やはり朝鮮支配の問題であった。イギリスとの同盟ができただけでも、日本にとって大きな成果だとはいいながら、それを当面の相手であるロシアとの交渉に役立てるためには、イギリスに日本の朝鮮における特殊な地位をなるべく大きくみとめさせておくことが必要であった。

  最初にイギリスが出してきた草案は、まず前文で目莫両国は、「東亜ニ於ケル現状及ビ全局ノ 平和ヲ維持スルコトヲ希望シ」、また、「韓国ガ如何ナル外国ニモ併呑セラレザルコト」と「清国 ノ独立ト領土保全を維持シ同国ニ於ケル高菜及ビエ業ニ付キ各国均等ノ企業権フ享有スルコト」 に対して日英両国は「特別ナル利益関係」を有すると規定し、この特別なる利益関係を守るために以下の同盟を結ぶというかたちをとっていた。

  第一条は日英のいずれかが、この利益を守るために、別の国と戦争を始めた場合には、他方の同盟国は中立を守り、他の国が敵方に加わって参戦することを妨害すること、第二条は、それにもかかわらず他の国が敵方に参戦したときは、他方の同盟国も参戦し、協回の戦闘を行ない、講和も相互の合意のうえで行なうこと、第三条は、日英両国は事前に協議を行なうことなしに、前文にかかげた利益にかんし他の国と別約を結ばないこと、第四条は、両国は上記の利益に危険がせまるとみとめたときは、相互に十分に、隔意なく協議をとげること、という四ヵ条がイギリス案の内容であった。さらに別款を加え、両国海軍が平時においてもなるべく協同することを盛り込んだ。

  ラソスダウン外相はこの草案を林公使に手渡すとき、閣僚のなかには、この同盟の対象とする区域をイソドにまで拡大したいという意見があることを告げ、この点を考慮してほしいと伝えた。

  このイギリス側草案のうち、戦争のさいの協力の問題は日本もまったく賛成であった。具体的 にいえば、日本とロシアの戦争にさいして、イギリスは中立を守り、ロシアの同盟国であるフラ ンスが参戦しないように努力する、それでもフランスが参戦した場合にはイギリスも参戦するというのである。つまり、フランスは、イギリスとの戦争、したがって世界的規模での戦争を覚悟しなければ、ロシアの側に加わって日本と戦うわけにはゆかないのであり、その危険をおかしてまでフランスがロシアを助けることはほとんど考えられなくなった。

  日本としては、これで三国干渉的な事態の再現を防げると考えたし、イギリスとすれば極東でみずから戦争することなしに、日本の武力によってロシアと対抗できることになるのであった。



守るべき利益はなにか

 しかしこうした軍事的協力によって守るべき利害はなにかという点になると、両方のおもわくのちがいがあらわれていた。日本側がいちばん不満としたのは、韓国がいかなる国にも併合されないようにすることが、両国の利益だとして現状維持を規定した点であった。これでは、伊藤がロシアに提案したような、朝鮮の独立を有名無実にする日露協定を 別に結ぶことは、日英同盟に違反することになってしまう。かといって、イギリス側が示唆するように、対象区域をインドにまで拡げてしまっては、日本と関係ない事件のために、イギリスの手兵となって働かねばならなくなるおそれかおる。

  そこで、日本側修正案は、こうした点をもり込んでまず前文をつぎのようになおした。英国案の「東亜ニ於ケル現状」を「極東」と、英文でいえば、Far East を Far Extreme Eastと書きかえて、インドまで含まないことを明確にし、朝鮮問題では、「如何ナル外国」を「別国」つまり、 日英以外の国と修正、「別国ガ韓国ヲ併呑シ又ハ共領土ノー部フ占領スルヲ妨グルコト」と傍点の部分をつけ加えた。

  また、「清国」の部分も英文では Chinaとなっているから、地理的名称としていわゆる中国本部を指すと解釈されるおそれがあるとして「清帝国」the Empire of Chinaとなおして満州まで含む意味を明確にした。

  しかしこれではまだ、イギリス案の基調となっている「現状維持」の線から抜け出していないので、別款に、「イギリスハ日本ガ現ニ韓国ニ於テ有スル優勢ナル利益ヲ擁護増進スル為メ適宜必要ナル措置ヲ採り得ルコトヲ承認ス」という一項を加えた。また軍事面でも、海軍の協力をさらに一歩進めて、日英両国は東洋における最大の海車力を維持するに努めるという一項をも別款に加え、別款をあわせて三条よりなるものとした。そして本文は公表することにし、別款は秘密 にしてはどうかとイギリスにもちかけた。表向きは、門戸開放、領土保全、つまり政治的現状維持をかかげ、裏では朝鮮における現状打破をもくろむというのが日本側修正案の特徴であった。

  たしかにそこには伊藤のいうように矛盾があった。12月6日ベルリソから打電した修正案についての意見の中で、伊藤博文は、朝鮮についての現状は西・ローゼソ協定の規定するものであり、その「現状」は我々ができることなら変更したいと望んでいる現状ではないか、別款第三条の朝鮮における日本の地位の規定は、漠然とその「変更」をも含んでいるようであるが、将来、 新たな日露協商を結ぼうとするとき、「現状」の解釈をめぐって開題が起こることはないか、と批判している。

小村外相としても、こうした批判があることは承知のうえで、日英同盟を進めたのであり、日本側修正案の説明書では「日本国ハ韓国トノ間ノ地理上歴史上及ビ実業上ノ関係ニ鑑ミ帝国政府ハ或ル程度迄同半島ニ於ケル行動ノ自由ヲ留保スルヲ深ク肝要ノ事ト考フ」と書いている。



朝鮮問題で難航

  しかしこれに対してイギリス側は手痛い反論を加えてきた。12月16日、林公使と会談したランスダウン外相は、日本提出の別款第三条をみとめては、 日本は事実上、韓国において自由行動に出ることができることになり、その結果、日本が朝鮮で侵略行動に出てロシアと衝突し、それが列国間の戦争にまで拡大するおそれがあると断じた。したがって、この日本側の提案をみとめるかわりに、日本が朝鮮で行なう措置についてイギリスと事前協議をするということにしてはどうかと提案してきた。

  日本側は、朝鮮の騒乱などに対するには、応急の措置が必要で、市前協議は不可能であること、 日本の朝鮮における行動は西・ローゼソ協定にしばられているのだから、侵略を行なう危険はないと弁明した。しかしイギリスはこの弁明で満足しはしなかった。一つには、日本の要求をみとめては議会や世論の批判にたええないと考えたためであったし、一つには、日清戦争を日本の侵略とみる見方が強かったからでもあろう。たしかに、日清戦争で朝鮮における現状打破をねらって戦争にもち込んだ日本のやり方は、強引そのものであり、それゆえ、開戦を避けようとして日本と清国、あるいは朝鮮のあいだを調停しようとした、イギリス、アメリカ、ロシアのいずれも が、日本の態度に強い反発を示し、日本を非難する覚え害を残しているのであった。イギリス側 は、日本に自由行動をみとめれば、日清戦争のように強引に開戦理由をつくりあげ、侵略行動に出る可能性ありと考えたと推測される。

  しかし、イギリスとしても日本の朝鮮における利害の大きいことはみとめねばならないと考え た。そこで、1902年(明治35年)1月14日、林公使に手渡したイギリス側の第二次修正案では、新たに第一条を設け、日英両国とも清・韓両国の独立を承認し、まったくなんら侵略的意志をもたないこと、また日本が韓国に有する政治上ならびに商業上の特別な利益、あるいはイギリスが清国に有する特別な利益が「別国ノ侵略的行動ニヨリ侵迫セラレタル場合」には、各自の利益擁護のため必要欠くべからざる措置をとり得ることと規定した。別款は外交文書の交換の形式とされ、当然、朝鮮問題についての第三条は削除された。

  日本も、大筋ではもうこれ以上、イギリスに対して無理押しすることはできないと判断して、 三つの点の修正を要求するに止めた。第一は、日本の朝鮮における特別な利益の中に「工業上」 の語をも加えることであり、第二は、「別国ノ侵略行動ニヨリ」を削りもっと広く、ただ「利益 ノ侵迫」された場合に、必要な措置がとれることにしたいということであった。第三点は、これでは、日本の朝鮮における特別の利益はみとめられたが、反面、日本は清国には全然利害関係がないようなことになってしまうという点であった。すでに指摘したように、日本の朝鮮における地位だけを問題にするならば、日露協商を結んだ方がよいということになり、中国分割の形勢への対応という日英同盟のもう一つのねらいがおちてしまうことになるのである。

  イギリス側は第一と第三の点は結局日本のいい分をみとめたが、第二の点には強い難色を示し、この「別国ノ侵略行動ニヨリ」の一句は、ソールスベリー首相がみずから書き入れたもので、日本の朝鮮での侵略的行動により、イギリスが戦争に引き込まれないようにするものだと強調した。

  これに対して日本側は、この修正の意図は、「別国ノ侵略行動」以外にも、内乱などにより利益がおかされる場合があることを考慮したものにすぎず、イギリス側が固執するのなら、「別国 ノ侵略行動ニヨリ」のあとに「又ハ内乱ニヨリ」の一句をつけ加えることでもよいと弁明した。 すでに朝鮮での東学道徒の反乱、中国での義和団の反乱と、二回にわたって民族主義的大衆運動 に抑圧者として立ち向かった日本は、民族運動の問題に敏感になっていたのである。

  しかし、他国の内乱に直接弾圧を加えることが内政干渉であり侵略であることはいうまでもないのであり、イギリス側はこれにもあまり乗り気ではなかったが、内乱などによって日英両国民の生命、財産などの保護を要する場合についての規定を入れることをみとめた。


      
同盟条約の成立


  結局、この粂約で守るべき利益は、イギリスは゛主として清国にかんする利益″、日本は゛清国において有する利益に加えて、韓国において政治上・工業上・商業上に格段に有する利益″とし、これらの利益が「別国ノ侵略的行動」あるいは両国民 の生命財産を保護しなければならないような「騒動ノ発生」した場合には、日英両国は必要な措置をとりうる、ということで交渉の難関を切り技けた。期限は5年、交換公文で海軍の協力を規定した。1901年10月16日0林公使とランスダウン外相の会談から軌道にのった交渉は、こうして、 1902年1月30日、ロンドンでの日英同盟調印式にこぎつけた。

  たしかに日英同盟は、日本の国際政治での地位を強めたし、朝鮮での日本の政治上・商工業上の優越した利害関係をもみとめた。しかし、交渉の経過からイギリスは、自己の利益の少ない朝鮮だけの問題で、日本がロシアと戦争を始めることを喜ばないことが明らかになっていた。

  したがって、仮にもし、ロシアが満州から撤兵し、中国を北清事変以前の状態にかえしたとしたら、日本は、戦争という手段によらずに、朝鮮は日本にまかせることを、ロシアにみとめさせるために苦労しなければならなかったかもしれない。その意味では、日英同盟は、日本につぎの戦争を遂行する可能性を与えたものではあっても、日露戦争を一直線に指向していたのではなかった。問題は、ロシアの満州占領の成行きにかかってきたのであった。

2戦争に踏み込む

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